地球の長い午後 / ブライアン・W・オールディス

地球の長い午後 (ハヤカワ文庫 SF 224)
遥か遠い、遠い未来。老年期を迎えた太陽は膨らみながら赤色巨星への道を歩み始め、自転を止めた地球の昼の側を温室さながらに熱していた。殆どの動物は絶滅し、その代わりに知覚と運動能力を獲得した植物たちが太古の恐竜の如く大地の王者と化し、互いの肉を貪り喰らいあっていた。月は地球から離れて惑星軌道を巡り、そしてその月と地球との間に直径1マイルはあろうかという巨大な蜘蛛形植物が糸を渡し、宇宙空間を行き来しながら宇宙線の養分を体に浴びているのであった。人類とその文明は太古の昔に消え去り、猫ほどの大きさの緑色の小人*1となったその末裔が、植物達の牙を恐れながら細々と生き永らえていた。それは末期の太陽を巡る地球の、長い長い午後であった。

数十億年後の地球の姿を恐るべきスケールと想像力で描ききった、ニューウェーブSF作家ブライアン・W・オールディス1962年発表の作品である。異様な姿と能力を兼ね備え地上に根を張りそして蠢きまわる植物たちと、その食物連鎖の最下部で、虫けらのように生き、虫けらのように命を落とす亜人類たち。その中の一人、少年グレンが部族を追放された事から、この緑の地獄での冒険が始まるのだ。次々と現れる驚異、恐怖、謎。不気味な生態を持った生物たち、不可解な現象、全てが変容した大地。はっきり言って、凄い。想像力の限界に挑む、とはまさにこの作品のことだろう。作品の感触としてはドゥーガル・ディクソンの『アフターマン』におけるグロテスクに進化した生物たちの画像を思い浮かべて貰うと、その異様さと、異様なものに見入ってしまう興奮、というのが伝わるだろうか。

中盤には主人公グレンがアミガサダケと呼ばれる寄生植物に思考を乗っ取られ、ここでグレンの深層心理にある地球生命の進化の過程と人類の歴史が明らかにされるシーンがある。そこには動物としての人間がどのようにして思考する脳を獲得し、またそれを失ったかが描かれるが、それはあたかも人類の祖先が知恵の実を食べたばかりに楽園を追われた、という旧約聖書の記述を思わせる。この”知性を得て世界を知覚する”ことと”ひとつの動物として奔放に生きる”ことの拮抗は終盤まで一つのテーマとなって存在する。そしてアミガサダケはその後もグレンに取り付いたまま、変容した世界を放浪させる”声”として物語の重要な役割を演じる事になる。物言わぬ植物達の脅威の中で、メフィストフェレスの如く甘言と恫喝とを囁くアミガサダケは、物語の中でも実にユニークな存在だ。また、共生植物から切り離された《ポンポン》と呼ばれる亜人類たちも旅に同行し、殺伐として始まった物語を奇妙にユーモラスなものに変えてゆく。

後半からは主人公と仲間たちが大洋を超え、自転の止まった地球の昼夜の明暗境界線《永遠の黄昏の地》にある土地まで辿り着く。地の果てに永遠に没しかけたまま動かない太陽。それが弱々しく光を投げかける荒涼とした大地。そこに佇み寒々とした空気の中、不気味に赤く膨らんだ太陽を眺める母子。ここではまるで宗教画を思わせるような荘厳さに満ちた情景が描写されてゆく。そしてそこで途方に暮れたまま細々と生活を始める主人公達の姿は、どこか滅びゆく者の哀感を帯び、それが遥か未来の異形なものと化した亜人類のものであったとしても、何か奇妙な共感を覚えてしまった。このクライマックスの章では、彼らの立つこの場所が、地球と人類と、そして時間というものの最果てなのだ、という眩暈にも似た圧倒感がいやおうなく迫ってくる。ただ、黄昏を迎えた人類と滅びを前にした地球とを描きながらも、その残された時間を思うように生きたいとする主人公の姿は、実に飄々として鮮やかな読後感を残すのだ。いやあ、今更ながらに言うのもなんですが、大傑作でした!

*1:ただどうも後半はこの設定を忘れたらしくて、終盤では主人公がイルカを背負って歩いたりする