頭の中の小さな白衣の男

10代の頃から30過ぎまで、一般社会に馴染むことが出来ずいつもグツグツと宵越しのおでん鍋のように頭の中を煮詰まらせていたオレは、「このままだと犯罪者か基地外になるかのどっちかだな」といつも思っていた。心に湧き上がる呪詛めいた言葉は頭蓋骨の中で木霊のように繰り返されながら増幅し、毒液のように血管を巡って自分自身を苛んだものだ。そして社交性の欠片も無く相談したり腹の中をぶちまけられるような人間が一人もおらず、今のようにネットがあるわけでもなかったあの時代、今にも体中の穴という穴からドロドロと噴き出してしまいそうだったそれらの言葉を引き受けてくれたのは、オレの頭の中に住んでいた一人の架空の心理カウンセラーだった。

そこではオレはアメリカ映画のドラマによくあるような心理カウンセラー室でカウチに横になり、傍らには椅子に座った白衣のカウンセラーがいて、オレの言葉を聞いていた。それは眼鏡をかけた背の高い細面の中年の男で、いつも柔らかな表情を浮かべていた。そして彼はオレの憤りや悲嘆や混乱に塗れた言葉に、落ち着いた静かな声で応えてくれていた。その言葉は分析であったり同情であったり叱咤であったり反論であったりした。オレはこの男の指摘や忠告にいつも素直に聞き入っていた。全てと言うわけでもないが、この男と対話することで煮え立った頭を冷まし、こんぐらがった気持ちを落ち着かせることが出来た。勿論それで現実的な問題が全て解決する事など無かったが、少なくとも言葉のぶつけ先にはなったのだ。

あのカウンセラーの姿をいつから見なくなったのかは憶えていない。彼がいなくなったのではなく、オレが彼に相談する機会も必要も無くなってしまったのだ。つまりこれは彼の治療が成功したと言うことなのか。それともオレが治療される事を放棄してしまったからなのか。どちらにしろ何故かたまたま彼のことを思い出して、今こうして日記に書いている。あのカウンセラーは今でも元気でやっているのだろうか。もしもどこかで会うことがあったら、カウンセリングなんかじゃなく、今度は一緒に酒でも飲んで、彼がどんな人間だったのか聞いてみたいな、とちょっと思った。