コントロール (監督:アントン・コービン 2007年イギリス/アメリカ/オーストラリア/日本映画)

コントロール デラックス版 [DVD]
――僕らが死のうとしていた夜も終わった (The End/The Doors
■伝説
ジョイ・ディヴィジョン。それは70〜80年代のポスト・パンクニューウェーブ・バンドとして、鬼火のように暗く輝く異能のロックグループだった。神経症的なサウンド、強迫観念に溢れた歌詞、陰鬱さに満ちたメロディ。何もかも破格の才能に恵まれた彼等は、一躍時代の寵児となる。しかし、グループのヴォーカリストイアン・カーティスは、全米ツアー出発の朝、23歳という若さで自らその命を絶った。映画『コントロール』は、伝説と化したグループの出自と、イアンの半生、そして自らを死へと追い込んでゆく彼の心の葛藤を描く、哀悼に満ちた作品である。監督はロック・フォトグラファー、映像作家として名だたるアーチストたちに絶大な評価を得るアントン・コービン。彼は生前のイアンがいたジョイ・ディヴィジョンのポートレイトも撮影している。

ジョイ・ディヴィジョンについてはこの日記で散々書いているし、彼等についての賛辞も批評も、どのようにその音を体験していたかも、今書くとどれも蒸し返しになってしまうのだが、なにしろ、10代終盤から20代にかけて、オレの精神形成に圧倒的に影響を与えていたバンドであることは間違いない。だが10代の熱病のようなこの体験は、もはやすっかり過去のものとして封印してしまったので、この歳になった今は別段言うことが無かったりするのだ。ああいう時代もあった、としか言いようが無い。前回レディオヘッドのエントリでも触れた、ロックの持つ暗さ、不安定さ、孤独さを最も体現していたのはまさにこのバンドだった。音それ自体がひたすら沈み込んでゆくような憂鬱さに満ちたバンドであり、当然、それを聴いていたオレも、どこまでも憂鬱さに沈み込んでゆく毎日を過ごしていた。彼等の2ndであり最後のアルバムである『クローサー』は、あからさまに死についての音楽だった。暗く、どこまでも憂鬱だった。そして、そういう時代も、過去にはあったのだ。そしてそれは、昔の話なのだ。

■ロスト・コントロール
映画は、監督アントン・コービンの、写真家らしいフレームの捕らえ方と白黒の映像で描き出されている。アントン・コービンについては、『DIRECTORS LABEL アントン・コービン BEST SELECTION』という映像集のレビューをここでUPしているので、興味の湧いた方は参考にされてください。イアン・カーチスの半生を描いた物語それ自体は、本人とよく似た俳優の登用や全篇に流れるジョイ・ディヴィジョンの主要曲、ライブシーンの細密な再現など、ファンにとってはそれなりに楽しめる作品に仕上がっていると思う。また、ジョイ・ディヴィジョンをよく知らない方でも、『ロックスターの死』という見ようによってはセンセーショナルな題材と、次第に自分を追い込んでゆくその純粋さや脆さが胸に迫るかもしれない。ただ、この間も書いたけれど、オレは純粋さや脆さというものを、ことさら今もてはやすようなことはしたくなくて、だからどうしても、青年期にはそんなふうに瘧にでもかかったかのように、自らの存在が不安定になることがあるものなのだ、という言い方しか出来ない。もはや純粋さそれ自体に憧れるには、とうが立ち過ぎる年齢になってしまった。そうじゃなくとも、この今だって、四苦八苦の人生だからな。

イアンが死を選んだ原因は、持病の癲癇発作による生への不安と、二人の女性を愛したことからの良心の呵責と葛藤によるものだったというふうに映画では描かれている。障害者の職業安定所に勤めていたということも、どこか生の残酷さを彼に感じさせていた原因の一つとなっていたのかもしれない。癲癇はままならないことではあるが、どこか孤高の音楽世界を作っていたイアンも、いうなれば浮気などという現世的で下世話な悩みで苦しんでいたということなのか。若くして結婚したイアンにとって、彼の妻というのは、愛しつつも退屈でしかない、彼が音楽へ向かうこととなった生まれ故郷の町を体現したものであり、ロックバンドとして頭角を現した頃に知り合った音楽ライターの娘とは、音楽業界という刺激に満ちた新しい世界を体現したものであったのだろう。自分の中の古いものと新しいもの、過去と未来、安定と変化、これら両極のものの中でイアンは引き裂かれていったということだろうか。ただ、死んでしまった者について、あれこれ分析することほど虚しい事も無い。一つだけ言えるのは、ひたすら月並みだけれど、死んだって花実は咲かない、ということだけだ。死は鮮烈であるかもしれないが、例えグダグダでも、情けなくても、へいこらして、凡人の生にしがみつくことしかできない者としては。

■"甘き死よ、来たれ"
当時聴いていた他のニューウェーブバンドの音を今また引っ張り出して聴くことは無いが、このジョイ・ディヴィジョンの音だけは、今でも時折、狂おしく頭の中で響き渡る事がある。多分今でもオレは、なし崩しに破滅してしまいたい、と思ってしまうことがあるからなのかもしれない。言ってみれば、彼等の音は、オレにとって烙印のようなものなのだ。一応断っておくが、基本的に人間がインチキに出来ているオレには、自死を選ぶなどということは考えられない。ヤバくなったらトンズラこけばいい。誰に迷惑をかけたって知った事か。少なくとも、死ぬよりは、遙かにマシじゃないか。しかし、そんなオレでも、当時聴いていたジョイ・ディヴィジョンの音からは、どこまでも甘やかな絶望と死の匂いを感じていた。そして多分、あの音を聴き続けていたオレは、その時、死んでいたのだ。オレはそれら限りなく死に近い音を聴いて、そして、現実世界では生き延びていた。ひょっとして、イアン・カーチスの、ジョイ・ディヴィジョンの音は、キリストが贖罪の十字架に架けられた様に、オレの死を、その身に負って、鳴り響いていたのかもしれない。

■Control Trailer


■JOY DIVISON / Love will tear us apart


JOY DIVISION / Shadowplay(1978 Granada Reports Live)

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