魔法にかけられて (監督:ケヴィン・リマ 2007年アメリカ映画)

おとぎの国でウフフオホホと過ごしていたジゼルは運命の男性の出現を心待ちにしてはラララと歌っていた。そこにアーハッハーッ!とむかつく笑いも高らかに現れたのは白馬の王子!一目で恋に落ちた二人はめでたく結婚へ!しかーし、悪い魔女でもある女王は王位を奪われたくないが為に、何故かお城の中にオプションで備えられた”魔法の井戸”にジゼルを突き落とす。そしてジゼルが気が付くと、そこは現実世界のニューヨークだった!?

ディズニー映画である。そして今回のこの映画は、ディズニーが自らの資産であるファンタジー世界をセルフパロディした映画なのである。おとぎ話の世界では当たり前なようなことも、現実世界で演じるとお馬鹿でアホアホで常軌を逸した行動でしかない、という痛烈な皮肉をモチーフにした映画を作ってしまうとは、ディズニーさんも大英断したもんだなあと言わざるを得ない。それは単なる風車を巨人だと思い込んで退治しようとするドン・キホーテの如き滑稽さだ。ドン・キホーテはそのとち狂った妄想の強さゆえに滑稽な愚者と化したが、この映画のジゼルも、おとぎ話世界から来たなんて前振りがなければ妄想で頭がいっちゃってる電波系の人ということになってしまうのだ。つまり、ファンタジーなんて、現実世界では妄想以上のものでしかない、と言っているようなものなのだ。

だがこの映画はパロディではあっても皮肉についての映画ではない。冒頭は意地悪な描き方をしていても、終局ではファンタジーが現実を凌駕してしまう、という、パロディにすることによって更にファンタジーというものの素晴らしさを高らかに謳いあげた映画として完結するのである。パロディというのは言うまでもなく批評行為であるのだが、批評することによってファンタジーの要である”夢見ること”を強固に補完しているのだ。ジゼルは頑ななまでに”夢見ること”を止めはしない。”信じること”を止めようとはしない。それは当然、本当におとぎ話のヒロインであるからだ。そして、ジゼルのその”夢見ること”と”信じること”は、現実的に生きることにしか眼目の無い、現実にがんじがらめになっているこの世界の住人たちの心を、次第に溶かしてゆくこととなるのだ。

言ってしまえば、これは一つのファンタジー論なんだと思う。妄想が、空想が、現実にどれだけ有効であるのか、また、夢見ることが、この世界をどれほど変容させえるのか、ということをこの映画では描いているのだと思う。だが、かといって「だからこそ明日から、夢見ることと信じることを始めよう」などとお目出度い台詞を並べるつもりは毛頭無い。この映画を観て、楽しく笑って泣いて、あーよかったと劇場を出てきても、やはり目の前に待っているのは索漠とした世界と問題が山積みにされた現実でしかない。たかがファンタジー映画の1本観たところで世界なんか変わるわけではない。しかしだ。だからこそ、夢想するのだ。この現実を圧倒する、切ないほどに美しい世界を。胸躍り心豊かにする幻想を。真正さと輝きを。だからこそ、我々は、《物語》に、憧れ続けるのだ。

魔法にかけられて 予告編