ジャンパー (監督:ダグ・リーマン 2008年アメリカ映画)

初めてこの映画を知ったときは「タイトル”ジャンパー”かよ!?防寒着かよ!?」などと思ったオレである。そう。田舎に住んでいたときは秋冬ともなればジャンパーを着込んでいた。しかも田舎では”ジャンバー”と呼んでいた。田舎だけに訛っているのである。しかし東京に来てみると誰も”ジャンバー”なんか着ていないではないか。着ていたとしてもそれはスタジャンだのMA-1だのというなんだかオシャレ臭いものである必要性があった。しかしオレにとって”ジャンバー”とは”土方ジャンバー”即ち”ドカジャン”であり、寒ささえしのげればいいというカッコよくもなんとも無い代物だったのである。つまり”ジャンバー”とは田舎臭いものの代名詞だったのだ。それが映画のタイトルとは!?と思って予告編を観たら、なんだ、ジャンプする人だからジャンパーだったのね…。

映画の筋は単純。あるきっかけから《ジャンプ》=瞬間移動能力に目覚めた少年が、その力を使って悠々自適の生活をしていたら、ジャンパーを狩る《パラディン》という連中に命を狙われるようになり…というお話である。それにしても”ジャンプ”の能力でまず何やるのか、と思えば取り合えず銀行強盗だ!そして現ナマたっぷり戴いて、NYの高級アパートでリッチな生活だ!…という発想って、そりゃまあ誰でも思いつくが、それそのまんま物語にしちゃったら単なる《中学生映画》じゃねえかよ!「Q:透明人間になったらまず何をする?A:女湯を覗く!」と言っているようなもんである。いやだから気持ちは判らんでもないんだけどね…しかしここまで身も蓋も無く中学生だと「あーあ」と思っちゃうんである。

で、謎の集団《パラディン》に見つかっちゃって痛い目に遭い、ほうほうのていで逃げ出したところが、8年前ジャンプの能力に目覚めた時に捨てた故郷だったりするんである。都会で負けて田舎に戻るところなんかも中学生展開である。さらに昔の彼女の居場所を探してイジイジ覗いたりなんかして、8年前よりずっとケバイ化粧になった彼女を見つけると《パラディン》のことなんざすっかり忘れ口説きに入り、「一緒に世界旅行しようぜ!」なーんて言ってローマのコロシアムを連れ回し、「どうだスゲエだろ!」なんて言っちゃったりしちゃったりするのも実に中学生だ。だいたいこいつ、ジャンプの能力を得てから好き勝手な生き方しかしてないから、もはやまともに社会で生きていけないだろう。いや、まともに生きる必要も無いんだが、だったらそれで社会の裏で生きるダークな凄みみたいのも身につけて欲しかったが、なにしろ基本が中学生なのでやることが天真爛漫と言うか単純というかアッパラパーなのだ。

だから社会の裏で生きていて、しかも《パラディン》に追われている癖に、その後はジャンプ能力があることを隠しもせずに派手に一般人にその能力を見せつけ、おかげで自分の首を絞めてしまうという当たり前の展開で、「だから中学生ってやつは…」と観ていて頭を抱える羽目になってしまうのである。それに相手の《パラディン》という連中もどうにも単細胞な連中で、お話だと中世よりジャンパー狩りをしていたというが、政府組織にまで食い込んでいるというのなら、捕らえてその能力を研究し、秘密の軍事利用とかなんとか言うことを思いつきも出来るだろうが、よく判らない宗教的な信条から単にジャンパーを探しては抹殺するだけなんである。ジャンパー追跡装置まで作っちゃって、テクノロジー的にも優れている癖に、やることが頭悪くないか?

だが、物語は見ようによってはジャンパーという”人間を超えたもの”とそれを狩るもの、という、SFでいうミュータントテーマでよく取り扱われる物語であるということも出来る。SF作品で言うとヴォークトの『スラン』やハインラインの『メトセラの子ら』、そしてコミックの竹宮恵子『地球(テラ)へ…』なんかもこのテーマの範疇だろう。また、抹殺されるべき存在として描かれるジャンパーとパラディンの戦いは、吸血鬼とヴァンパイアハンターの物語とどこか被るところは無いか。そしてこれらの物語と映画『ジャンパー』の決定的な違いは、狩られるものであること、人間以外のものであることへの憂いや悲しみが一切存在しないと言うことだ。それは勿論物語が中学生だからなのだが、逆に、鬱陶しい心情的葛藤を廃した、新しい《新人類と旧人類の戦いの物語》として発展する余地もあったということだ。原作はどんな話なのかは知らないが、そういった描き方があれば、もう少し物語に深みが出たのかもしれない。

■Jumper Trailer - World Premiere