ぜんぶ、フィデルのせい  (監督:ジュリー・ガヴラス 2006年フランス映画)

1970年代のパリ。9歳の少女アンナ(ニナ・ケルヴェル)は裕福な家庭で何不自由なく暮らしていた。しかしあるきっかけから両親が”キョーサンシュギ”に目覚めてしまいさあ大変。貧乏っちい小さな家に越し、お手伝いさんもクビ、家には怪しげな髭面の男たちが出入りし、ミッキーマウスは”ファシスト”だから禁止、”レンタイ”がどうとか”トミノサイブンパイ”がこうとか皆で訳の分かんない事を言っている。なんなのこれ?あれもこれも、ぜんぶフィデル・カストロとかいう赤くて髭の人のせいだって言うじゃない!?以前の生活のほうが全然いい!早くあの頃に戻してよ!

キューバ革命、チリ社会主義政権成立、スペイン・フランコ独裁を背景に、ヨーロッパの激動の70年代を一人の小さな女の子の目から描いた人間ドラマ。まあこうは書いてもオレ自身がこれらの社会的背景をきちんと把握しているかというと実はそんな訳でもない。特にそれらが当時のヨーロッパ、そしてフランス社会に与えた影響などこんな映画でも見ない限り考えたこともなかった。当然そういった背景を知った上で観たほうが理解できる映画だと思う。だが一人の少女の成長の物語として観ても十分に楽しめるのではないか。なにしろ主演の少女ニナ・ケルヴェルが終始仏頂面で主人公を演じているのが、子供が主役の映画にありがちな甘さが無いのがいい。大人への反抗心は描かれるけれども、子供は無垢なもの、子供の目は常に正しいもの、といった描き方では決して無いのだ。

大人には大人の事情があって、それは子供には分からないことだから、と曖昧にする。しかし子供というのは曖昧にされたり誤魔化されている、というのを、実は気付いているものなのだ。そして、大人が自分では正しいと思い込んでいることが、子供にはそれが自分に嘘を付いて無理に信じようとしている、ということも分かったりするものだ。しかしそういった子供の目の正しさとは別に、本当に子供だから分からない問題というのも当然ある。つまり、曖昧にしたり嘘で誤魔化さないことが大事なのだ。この物語では、連帯や共産主義というものがなんなのか、という9歳の子供の問いに真摯に答えようとする大人たちの存在がきちんとある。勿論子供にとっては最初はなんのことやら、ではあるが、世界や大人の社会に対する興味のとば口を持つことが、最初は肝心なはずだ。

一方少女アンナの両親はもとは富裕で知的な社会階級であるけれども、スペインに住む肉親が反政府運動で逮捕されることにより共産主義に傾倒してゆく。しかしここには共産主義そのものへのシンパシーというよりも、その根底に富裕階級であるという負い目があったからだということも出来るはずだ。だからアンナは両親の行動にどこか付け焼刃的なものを感じてしまうのだ。そして人民の自由を標榜する父は、妻が雑誌記者として堕胎の自由を取材しそれを後ろ盾することに拒否反応を示す、というダブル・スタンダードを演じ妻と対立してしまう。このブレ方からも思想的付け焼刃の程が見え隠れはする。しかしだ。人間というものは決して完璧な存在ではない。至らない部分や曖昧な部分があったのだとしても、それに気付いたのなら直していけばいい。そしてその為に対話というものがあるのだ。

つまりこの物語は、最初大人の言動に拒否反応を示していた子供が次第に世界を学んでゆく物語であり、また大人のほうも、子供の問いかけから自らの考え方を見直してゆくという、お互いの成長と変化の物語として観ることが出来ると思う。勿論ニナ・ケルヴェルたんのミッションスクールの制服やスクール水着姿や入浴シーンに萌えるロリロリ映画として観ることも全然OKである(←オレ)。

■Blame It On Fidel(原題:La Faute à Fidel)-Trailer