ゾンビ【米国劇場公開版】を観たぞ

ジョージ・A・ロメロの映画《ゾンビ(Dawn Of The Dead)》はホラー映画のみならず映画史にも残る名作中の名作であるということは、オレの日記を読んでいるような映画好きの方たちにとっては既に常識であろう。ちょっとおさらいになるが、この《ゾンビ》には複数のバージョンが存在する。これは「米国劇場公開版」 、「ダリオ・アルジェント監修版」 、「ディレクターズ・カット完全版」 、さらにファンが勝手に作ったという「ファイナル・カット版(非公式)」があり、そして日本だと「劇場公開バージョン」「テレビ放送バージョ ン」なんていうのまで存在する。*1この日本のバージョンというのは、ゾンビの発生を説明する為に、「宇宙のどこかの惑星が爆発してその宇宙線の影響で死者が蘇った」などという設定が付け加えられ、冒頭では惑星爆発シーンまでが勝手に挿入されていた。オレは1979年の日本公開当時は劇場では観ていなかったが、TV放送版でこの「惑星爆発シーン」を観ていて、あとで名画座やビデオで見返した時このシーンが無かった為、「あれはいったいなんだったんだ?」と後々まで疑問に思っていたことがある。

日本初公開時は割と記憶に残っている。オレの田舎の劇場にこの《ゾンビ》のでかい看板が立った時には、「なんて下品で気持ちの悪い映画をやってるんだ!」と軽蔑し憤慨していたものだ。実は今でこそバリバリのホラー映画マニアのオレであるが、当時16、7のガキだったオレは、映画こそ好きだったけれども、こと”ホラー映画”というジャンルに関しては、映画としては低級で下劣なものだと思い込んでいたのである。怖がらせる為のはったりばかりが優先して、物語なんてカラッポのクズ映画だと思っていたのだ。だからクラスの女子達がゾンビ観たい、観たいけど怖い、ねえ一緒に行きましょうよ、なんて教室の隅でこそこそ喋っているのを横目で見ながら、映画のことなんてなんも判らん連中だな、などと、今から考えると思い上がりも甚だしい勘違い野郎な視線で彼女らを見下していた。楳図かずおあたりのホラー漫画も馬鹿にしていた。昔はいきがってばかりいて物の見方の偏ったワカゾウだったのだ。「怖いものを怖いけれど観たい」という感情は人の感情として実にストレートで原初的なものではないか。だが屁理屈が得意で頭でっかちなだけのワカゾウだったオレは、人の生々しい感情というものがまるで理解できていなかったのだと思う。肉体や感情が欲するものを無視すると人間馬鹿になる、という好例である。

さて、この間の日記でちょこっと映画『ゾンビ』のことを書き、アマゾヌ商品を調べて見たら、自分の持っている「ダリオ・アルジェント監修版」のDVDが既に廃盤で、アマゾヌで中古品が¥11800〜¥13000の高値が付いていていることを知りびっくりした。そして、今まで存在は知っていたけれどもあえて買い足す気もあまりなかった「米国劇場公開版」に興味が沸き、この度買ってみる事にしたのである。*2音楽や尺の違いがあることは知っていたが、内容はそれほど違いはないだろう、とたかをくくっていたのだが、観てみてこれがビックリ、「ダリオ・アルジェント監修版」と「米国劇場公開版」は全く違うではないか!何がって?それは画質だ!TV放送の録画をDVDで焼いたかのような、フィルム傷だらけでボケボケに薄暗い「ダリオ・アルジェント監修版」DVDと比べ、「米国劇場公開版」DVDの画質の綺麗なこと綺麗なこと!《デジタルニューマスター》の看板は決して伊達じゃなかった!何か新しい映画を観るような気分で《ゾンビ》をもう一度観る事が出来たよ!この感動って、《ゾンビ》ファンの方にはどれだけ理解してもらえるだろう!

この映画がいかに傑作であるかは、今またグチャグチャ書いても始まらないだろう。しかし何度観ても構成も物語も完璧な映画だ。この《ゾンビ》には、映画の内容の素晴らしさとは別に、《完璧な映画》を観ることの清々しさと幸福がある。トランポリンが写っていたとか特殊メイクが今見たら稚拙とかそういうレベルの話ではない。物語の緩急、展開の妙、舞台設定の巧みさ、キャラクター配置の上手さ、これらが絶妙に絡み合い、130分の長尺が90分のアクション映画を観ているかのようにスピーディーに感じるのだ。例えば名作でありオレもファンである《スター・ウォーズ》は、今見るともっさりとしたダレる部分があり、お話の複雑さは別ではあるとはいえ、同じ130分の尺が「長いなあ」と感じてしまうことと比べると、《ゾンビ》の製作と編集の手腕には並々ならぬものを感じてしまう。

一言だけこの映画の魅力について述べるなら、それはこの映画に横溢する《鮮やかな絶望》ということになるだろう。世界は既に終わっている。救いは何一つ望めない。主人公達はその中で精一杯サバイバルし、中盤ではゾンビたちから見事ショッピングセンターを奪い取るが、そこでの平和な生活には、実は未来は無く、明日への希望も無い。そしてヘルズ・エンジェル達の襲撃があり、全ては灰燼に帰し、友や恋人は死んでゆく。生き残った者達はヘリコプターでからくも逃れるが、残された燃料はあと僅かしかない、ということが告げられて映画は終わる。しかしこの絶望に絶望が塗り重ねられてゆく世界で、主人公達は殆ど泣き叫びも逆上したりもしない。それは彼らがどこまでも理性的な存在として描かれるからである。そして、本当の理性こそが、本当の絶望というものを知っているのである。だからこそ、映画《ゾンビ》の中で描かれる絶望は、どこまでも鮮やかで、深く、確固として、そして甘やかなのである。