国のない男 / カート・ヴォネガット

国のない男

国のない男

2005年にアメリカで発表されたカート・ヴォネガットのエッセイ集。これがヴォネガットの遺作となった。

表紙にはヴォネガットのプロフィール写真が使われ、本文にはシルクスクリーン加工されたヴォネガット手書きの皮肉な箴言が幾つも収められている。このヴォネガットアフォリズムは、いつもどれも悲しくて優しい。ヴォネガットの小説がいつもどれも悲しくて優しかったように。そして、文中に挿入される手書きの「*」マーク。これはアスタリスクではなく、”ケツの穴”という意味だ。”なにもかもケツの穴さ”という意味なのである。ヴォネガットシニシズムの作家ではあったが、決してそれのみの作家ではなかった。世界というものに対し自分が圧倒的に無力であると感じたとき、人は時により皮肉という形で抵抗する。そして勿論、皮肉を言った所で、世界も己の無力さも何一つ変わりはしない。そして、ヴォネガット小説の持つシニシズムニヒリズムは、この”圧倒的な無力感”の表明だったのだろう。

しかしここでヴォネガットは絶望しない。根拠の無い希望も口にしない。ヴォネガットは自らと同じ無力な人々に共感の眼差しを投げかけ、生きるというただそれだけのささやかさを肯定する。だからヴォネガットの小説はシニシズムニヒリズムを描きながらもどこか優しい。ヴォネガットの小説に本当の悪人は存在しない、というのはこういうことなのだと思う。そして、”圧倒的な無力感”と”生という肯定すべきもの”というアンビバレンツの狭間で描かれた小説だからこそ、ヴォネガットの小説はどこか物悲しく、切ない。資本主義社会という”プレイヤーピアノ”の中で、”スロータハウス5”の如き陰惨な現実と、”猫のゆりかご”でしかない幻想とに引き裂かれる現代人に、ヴォネガットの小説が圧倒的に受け入れられたのは、まさにそのアイロニーゆえだったのだと思う。

本書はフィクションではなくエッセイという形だから、ヴォネガットの声はとても生々しく響く。世界を憂い、世界に怒り、世界に異議を唱えるヴォネガットヴォネガットの持つ根強いまでの虚無感は、問題作『スローターハウス5』でも取り上げられた、ドレスデン無差別爆撃の体験と、それを引き起こした戦争と言う愚かしい行為から来ているものである事は間違いない。文学者らしい皮肉な文章になることもあるとはいえ、本書におけるメッセージはとてもストレートなものだ。それはある意味、”アメリカの良心”といったものであったのかもしれない。

だがオレのようにヒネた大人になってしまった者にとっては、ヴォネガットのストレートで痛烈な言説はどうにも面映い。「アメリカが人間的で理性的になる可能性は全く無い」「我々は全員、化石燃料中毒なのだ」などと唱えるヴォネガットを、オレは鼻で笑うほどスレてはいないが、かと言って諸手を挙げて賛成というほど純朴でもない。この感覚はなんだろなあ、と思ったが、これって、自分のお爺ちゃんに、お説教されているような気分に近いのかな。オレもいい歳だし、今更お説教されるのは面白くないけど、お爺ちゃんはいっぱい苦労や経験をしてきた人だし、言い返す言葉なんかないよなあ、てな感じかな。そしてそんなお爺ちゃんが亡くなって、口うるさかったけど、尊敬できるいいお爺ちゃんだったな、などと、お爺ちゃんに言われた言葉を思い返しながら思ってみる。そして、お爺ちゃんが伝えたかった事はなんだったんだろう、ともう一度考えてみる。なんだか、そういう本のような気がした。