虐殺器官 / 伊藤計劃

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近未来。米情報軍の暗殺部隊員クラヴィス大尉は、様々な国で作戦を展開しながら民族虐殺の影に暗躍する男が存在する事を突き止める。クラヴィスプラハ、インド、アフリカとその男を追跡してゆく。

軍事SFということで陰謀と硝煙が渦巻くアクションスリラーを期待していたが、作品の主題はそこでは無かったらしい。人々の深層心理に影響し虐殺を促してしまう”言語”がこの物語の核となる部分であるが、アイディアとしてはそれほど目新しいものではない。『攻殻機動隊』では”強制言語”という形で物語の中の瑣末なアイディアとして使われているし、ニール・スティーブンスンの『スノウ・クラッシュ』は人類全てに共通するアーキタイプの言語を発見した者が”言語による支配と破壊”を行おうとする物語だった。近未来SFガジェットもギブソンやイーガンほどの強い印象を残さない。むしろこの作品で散見したのは登場人物のナイーブさと過剰なセンチメンタリズムである。

主人公クラヴィスは暗殺部隊に所属し精神療法による”感情遮断”を処置されているにも拘らず、物語内において執拗なまでに母の死に対する悔恨を訴え続ける。これは物語序盤のみならず終盤までしつこいぐらいに語り続けられる。同僚の隊員も職業軍人でありながら戦場に”地獄を見た”と言ってあっさり自殺してしまう。戦場の死体の描写も情緒的であり、これもいかに惨たらしいかということを繰り返し語る。確かに戦場は地獄であり死体は惨たらしいものであるが、職業軍人として他国でさんざん暗殺作戦を繰り広げてきた暗殺部隊員の、このナイーブさはなんなのだろう。これでは軍人の視点であるとは言えない。主人公の”20世紀の映画好き”で”文学部卒”というキャラクター造型も今作に必要なものであるとは思えない。強制徴用された民兵ならいざ知らず、仮にも合衆国に忠誠を誓い軍人であることをその生業としているのならば、少なくともこの物語で語られるような脆弱なメンタリティを持った人間が勤まるはずはない。というより、ここまで迷うなら軍人辞めろよ、と言いたい。

ナイーブで感傷的な視点、これは作者本人の視点ということなのだろう。即ちここで語られる心情も思想も作者本人のものなのだといってもいいのではないか。勿論小説作品で主人公=作者であることはままあることだし、その中で自分の世界観を語ることを禁止するものはない。しかし問題なのは、この作者個人なのであろう主人公の内面描写が、軍人というもののメンタリティとしてみるとつり合っていないという部分である。心情吐露する際の文章の書き方が無防備で散文的なのだ。そしてこの”作者の視点”なるものが、エンターテイメント小説として読むのであるのならあまりにも”青臭い”。そしてその”視点”が個人的なものを超えないのだ。

戦争が恐ろしいのは人が人を殺す事ではない。戦争が恐ろしいのは、戦争になれば”誰もがそれが当たり前のように”人を殺す事である。1992年のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争では内戦が始まった途端、それまで平和に生活していた隣人同士が民族が違うというだけで突然殺し合いを始めた。その殺戮には作者の考えるような人間的倫理など軽く消し飛ぶような絶望的な憎悪と狂気がある。これが人間だ、というつもりは無い。しかし人間にはこのような暗い獣じみた残虐さがどこかに眠っているものなのだ、と言う事は出来る。つまり、この自分でさえも、戦争になれば、平然と人を殺すだろう、ということだ。それが戦争の怖さなんだ。しかし主人公は殺戮の只中におり職業として自らも手を下しているのにも拘らず、自分だけが無垢なナイーブさの中にいようとし、死んだ母親への懺悔のみを己が免罪符のように感傷的に語る。あたかもこの世界で自分だけが傷ついているかのように。そして”衝撃のラスト”なるものはこのエゴイズムの拡大再生産でしかない。これでは偽善的ではないか。そこが作品として納得できなかった。

ただ逆に、この視点をそのまま文民のものだ、とするのならまだ共感すべき点もあるのである。戦争をするもの、それに巻き込まれるもの、様々な立場や視点があるはずだ。作者はただ自らの視点を語るのではなく、「誰の、誰による視点であるか」を明確にする事により、読者に感情移入を促すべきだったのではないか。小説を書く上でまず考えなければならないのはこの”視点”を選ぶことであると思う。その点ではこの『虐殺器官』は、独善的な一人称視点が”戦争”というグローバルなものを一個人の感傷的感情のみに矮小化させたことで失敗しているのではないだろうか。