グーグーだって猫である (3)/ 大島弓子

グーグーだって猫である (3)

グーグーだって猫である (3)

名作『綿の国星』から愛猫”サバ”を描いた一連の短編に次ぐ大島弓子の現在進行形の”猫漫画”、それがこの『グーグーだって猫である』である。(”である”が二回続いてしまったんである。)
作品の内容は飼い猫たちと作者個人との淡々とした日常が描かれるだけだ。家族のいない作者には猫達が家族。人間の登場人物はあまりいない。だがその生活は孤独のように見えるけれどもどこか豊かだ。小さな発見と小さな喜び。作者は庭に水を撒くだけの事にも感動する。きっとそういった小さな喜びを日々積み重ねてゆく事こそが幸福というものなのに違いない。そしてこの漫画は、可愛い猫との心安らぐひと時を描いたペット漫画というよりも、独身のまま老境を向え、癌という大病を患い、飼い猫に愛情を注ぐ事を生きる喜びとして生きる一人の女性の、ささやかな人生とその人生への諦念の物語なのである。

この『グーグーだって猫である』は、ペットというよりももはや人生の伴侶として長年愛し過ごしてきた”サバ”が亡くなってしまう所から始まる。そこには当然悲痛な喪失感はあったのだろうけれど、大島はことさらそれを大仰に描かない。そういえば大島の漫画というのは、どれも恐るべき鋭敏な感受性で描かれた作品ばかりであるけれども、こと感情の発露というものに対しては一歩引いた描写の仕方を見せる。初期の作品などは確かに少女漫画的な強い情緒性を窺わせるものはあったにせよ、中期からは次第に分析的になり、一つの感情を描いても決して生々しくはならないのだが、にも拘らずその表現されたものはどこまでも豊かで心を打つものに仕上がっている。

このような大島の完成された作家性というのは、少女のような瑞々しさと数々の経験を経た老成を併せ持つという、稀有なバランスの元に成り立っている。こと大島の物語の登場人物たちは一見ハチャメチャな部分があったとしてもその本質は老成している。例えば大島作品の『秋日子かく語りき』では”少女の外見を持った老女”が描かれ、『金髪の草原』では20歳の青年の心を持った80歳の老人が恋をする。これらはあたかも作者大島の内面を描いたかのような少女(青年)のような老女(老人)/老成した少女(青年)が人生を見つめなおす物語であるのに対し、同じように”少女の外見を持った老女”を描いた高野文子『田辺のつる』が、老いる事の残酷さを描いたものであることを考えるなら、一人の人間として、そして女としての「老境」というものに対する大島の受け止め方が浮き上がってくるだろう。

愛猫”サバ”の死の後、その空虚感を乗り越えて大島は新しい子猫”グーグー”を迎え入れる。いや、ここで大島は他者の死を”乗り越えた”のではなく、”受け入れた”と言ったほうが正確なのだろう。愛するものの死は、”乗り越える”ことによって忘れ去られるものではない。そしていつか訪れる自らの死は、”乗り越える”ことなどできはしない。生けとし生けるものには必ず死は訪れるけれども、その愛の記憶までが死に絶えるわけではない。愛するものの死を受け入れ、そして心の中で再び愛するものが生き続ければいい。死の悲しみは、そうやって受け入れるしかないのだろう。他者の死を想うという事は自らの死を想う事だ。そして死を想うという事は生を想うという事でもある。大島はこの漫画の連載中、癌手術をし、経過は良好であるが、当然自らの死というものを考えただろう。逝ってしまった愛猫と、新しく迎え入れられた子猫。死というものを孕んだ生。自らも死ぬ運命である生を生きること。それが生なのだと受け入れること。これが、この作品に底流する、作者の静かな諦念なのである。

この3巻では猫疥癬でボロボロになった子猫をホームレスのおじさんから貰い受け、この子猫の治療と回復、そして既に家にいる猫たちに次第に受け入れられてゆく様子が主に綴られている。捨て猫を見つけると矢も楯もたまらず拾ってしまう箇所では危うさを感じたが、最後にはきちんと里親を探している。それは愛情には責任がある、という態度なのだと思う。なお本作は犬堂一心監督、小泉今日子主演で2008年映画化・公開予定である。

グーグーだって猫である

グーグーだって猫である

グーグーだって猫である〈2〉

グーグーだって猫である〈2〉