擬態 -カモフラージュ- / ジョー・ホールドマン

擬態―カムフラージュ (海外SFノヴェルズ)

擬態―カムフラージュ (海外SFノヴェルズ)

戦争SFというとロバート・A・ハインラインの『宇宙の戦士』を挙げる方が多いかと思うが、このジョー・ホールドマンの処女長編である『終わりなき戦い』こそ戦争SFとしてもっと評価され、読まれるべき作品だと思う。『宇宙の戦士』が冷戦時におけるアメリカのタカ派像だとすると、『終わりなき戦い』はベトナム戦争に出征した作者の体験をベースに、泥沼と化しいつ終わるとも知れない熾烈な宇宙戦争を戦う一兵士の、憔悴と焦燥と死に満ちた戦場の生活を描いた名作なのだ。
そのジョー・ホールドマンの新作SF長編『擬態 -カモフラージュ-』である。2019年サモア島沖で発見された数百万年前の地球外遺物の正体を追う物語と、太古より地球上で様々な生物の形に”擬態”して生きてきたエイリアン《変わり子》が遂に人間の形態を獲得し、人間の社会と心理を学びながら自らのアイデンティティを捜し求める物語、そして、同じく”擬態”を得意としながら、人類の戦争と殺戮の歴史の裏で暗躍するもう一人のエイリアン《カメレオン》の物語の三つが語られる。人間に憑依・変身しながら追いつ追われつするエイリアンの物語はハル・クレメントの『20億の針』というSFがあったし、映画でも『ヒドゥン』という佳作があった。深海に沈む異星の遺物という物語ではマイケル・クライトン『スフィア』という作品を思い出すことが出来る。
そういった面で見るとプロット的には新鮮味は無いのだが、この物語を独特なものにしているのはこのエイリアンが1930年代、つまり第二時世界大戦前夜に人間の形質を得、そして戦争に参加、不死身の体を持つ者として人間の戦争の歴史を観察するという部分である。その中には太平洋戦争における悲惨な捕虜虐待事件《バターン死の行軍》、さらに悪名高いアウシュビッツ収容所でのエイリアンの暗躍も描かれる。しかしエイリアンたちは戦争の只中にいたとはいえ、あくまで観察者としてそこに存在していただけである。その中で人間同士の友愛を覚える《変わり子》と、人間の残虐さに酔う《カメレオン》という両極端の性格にエイリアンたちは分かれるけれども、それはあくまで人間のもつ性質の写し鏡に過ぎず、彼等自身は地球の平和も滅亡も、そして当然侵略にも興味がないのだ。こう考えるとこのエイリアン達の存在というのは、人間と戦争を語る上での客観的な存在としての狂言回しということが判ってくる。
《客観的な存在としての狂言回し》はなにも戦争の面においてだけではない。人間ではないものとして”人間の心理と社会”を1から学んでゆく彼等エイリアンは、その存在自体が”人間の心理と社会”に対する批評行為なのである。そのような登場人物の存在を何故作者は必要としたのか。先に述べたように作者ジョー・ホールドマンベトナム戦争体験をSFとして、つまりフィクションとして相対化した作品を処女作として発表し、その後も長編『終わりなき平和』でもう一度”戦争と人間”をテーマにした作品を描いている。そして今回の『擬態 -カモフラージュ-』においてもエイリアンたちの視線を通し再び”人間と戦争”を、そしてさらに人間の本質というものを客観的に考察しようとしたのではないか。
後半、人間の女性の肉体へと”擬態”した《変わり子》は、”人間の愛”というものに目覚めていく。数百万年を生きながらえてきたエイリアンが、人の愛という感情に目覚め戸惑う様はどこかいじらしく愛らしい。それはまた、長きに渡る戦争と殺戮の歴史を見つめたエイリアンが最後に見出し獲得した感情なのだというところに、この作品のテーマがあるような気がする。ジョー・ホールドマンは寡作ではあるが、もっと評価されていいSF作家なのではないかと思う。