サンキュー・スモーキング (監督:ジェイソン・ライトマン 2006年 アメリカ映画 )

喫煙を巡る問題には様々な意見と議論があるだろうが、この映画の主題は喫煙の是非を問うたものでは決して無い。むしろ大企業の利益優先と情報操作、そしてそれに翻弄される人たちのブラックなコメディーと観るべきだろう。


結局、煙草業界に限らず、企業というのは大なり小なりグレイゾーンを抱えているものだと思う。そして資本主義の社会に生きている以上、誰もが潔白ということは有り得ないのではないかという気がする。大企業=悪、消費者=善という単純な図式ではないのだ。煙草の有害性を隠して売り続ける煙草業界も、最新ゲーム機を高額の値段で転売するオークション出品者も、根っこの部分では同じである。口八丁手八丁で煙草業界の利益を守るPRマンと、水着の美女をはべらして水着の美女とは何の関係も無い商品を売るお馴染のCMとは実は何も変わらないのだと思う。唯一違うのはそこに『健康』の二文字が入るかどうかだが、様々な大量の化学物質と共存しなければ成立しえない現代の生活では、言ってしまえばありとあらゆるものが”不健康”の種だ。つまり問題は煙草だけにあるのではなく、大量生産と大量消費をしなければ成り立たない資本主義と我々の生活そのものが孕む問題なのではないか。現代とはそういう時代なのであり、そしてこの映画のPRマンが滑稽なのだとすれば、同じように我々も滑稽なのだろうと思う。


それを端的に現したのが映画の中で何度か問われる「何故このような仕事を?」という言葉だが、対する答えは「ローンの為」、ということなのである。つまり金の問題が全ての問題に優先するというわけである。そして誰もこれを笑うことは出来ない。それは経済という巨大な機械の中で生きる全ての人間の問題でもあるからだ。人はそこでモラルとかマナーを鑑みて踏みとどまるか否かを推し量るのだろうけれど、その為に失業するわけにも行かないのである。逆に言えばモラルやマナーなどその程度の重要度でしかないのだ。


映画として観るならPRマンの父を神と崇める子役の子に注目すべきものがあったが、家族ドラマそれ自体は蛇足だったような気がする。特に家族愛ですり替えたラストは映画の主題と関係ないのではないかと思う。…いや、これもひとつの情報操作なのか?主人公のPRマンはインチキ臭い善人面で回りを翻弄するが、かといって悪人というわけでもなく、時にはこっぴどくやられて人間臭い所も見せる。確かに映画の主題から考えてこうならざるを得なかったとはいえ、主人公も含め登場人物が皆腹に一物持ちつつもグレイゾーンでもある訳で、強烈な悪がいないという意味ではちょっと映画的な痛快さに欠ける事になってしまったのはいたしかたないか。主人公の仲間としてアルコール業界、火器業界の人間との秘密クラブ《モッズ特捜隊》が現れて3人で食事しながらアブナイ会話をするシーンが何度も描かれるが、ここだけ取り出してもうひとつの物語にしても面白いかな、と思った。


■Thank You For Smoking トレイラー