順列都市(上)(下)/グレッグ・イーガン

順列都市〈上〉 (ハヤカワ文庫SF)

順列都市〈上〉 (ハヤカワ文庫SF)

順列都市〈下〉 (ハヤカワ文庫SF)

順列都市〈下〉 (ハヤカワ文庫SF)

人間の意識そのものをコピーし、データ空間の中で”生きる”というアイディアはSFでは珍しくないテーマですが、この「順列都市」ではそれを徹底的に掘り下げ、データ空間の中で”生きる”ということはどういうことなのかを描いた作品。最終的には時空を超越した”永遠”ともいえる仮想現実世界が描写されます。


しかしその窮極のVR空間を構成する為に作者がぶち上げた「塵理論」なる空想の理論がオレには皆目理解できませんでした…。データを構成する一部分はごく微小な単位であればどこにでも偏在するものであり、それを任意の形で再構成できるのであれば空間的なものを無視して任意の場所(もともとそれは仮想的なものだから)に顕現できる。…ということなんでしょうか?そして再構成されるデータはリニアーな時間軸(それ自体が相対的なものであるから厳密には人間的な主観時間)に沿って構成される必要が無いから…”永遠”?なの?で、それらの作業は何が行うの?”塵”を再構成するために見つけてくるのは…何?
この「塵理論」、「順列都市」が初出された時もかなりの議論になったらしいのですが、ネットで探して説明を読んでみてもどうにも理解が困難です。オレみたいにギブアップしている方もちらほらおられました。あのさー、これはさー、難解なんではなくて作者の説明が拙いせいだって言っちゃダメ?どうせ架空の理論だし読み物なんだから、もうちっと噛み砕いて説明して欲しかった、なんて言っちゃうオレは負け犬?


という訳で「塵理論」のことは置いといて「人間の意識をデータ化してそれが”生きている”と言ってしまうことは可能か?」ということに付いて考えてみましょ。
この小説では”意識とは何か?”ということについても言及されていますが、例えば
「意識とは特定のアルゴリズムの属性だと主張した。情報を特定の方法で処理した結果であり、そのタスクにどんな機械、あるいは期間が使われたかは無関係だ。(75P)」
なんていうことが書かれていて、勿論これはフィクションを面白くするための方便の一つでしかなく、これをもって”意識”論とは言いがたいけれど見方としては面白いよね。
身体的知覚的な全ての体験する情報を処理するのは脳であるが、それを完璧にトレースできるものがあればそれは脳と変わらない、そしてそれを自律的に処理できるのであればそれは意識であるってことになっちゃうのかな。


認識論の世界では唯物論/唯心論、実在論/観念論なんて概念の対立がありますが、サイバー空間で生きるというSF小説では唯物論的にデータ化された”意識”がデータで構築されたなんでも可能である世界を現出させるというある意味観念論的な捻じれが存在しています。しかしこれは世界/宇宙全てを分子レベルからデータ化できるという大前提があるからで、この「順列都市」ではそれをやってのけていますが、どのような膨大なプロセッサを使ってるのか定かではないですがまあ普通に考えて不可能なことでしょうねえ。それをやっちゃうところがSFというホラ話の醍醐味でもありますが。


脳とコンピューターは何が違うか?というと処理能力や容量ではなく”自律的である”という点なんではないですか。勿論現在では自律型コンピュータの開発が進んでおりますが、基本的にはプログラムされたことを実行するという意味では自律型コンピュータは人間の脳の似姿ではあっても同等であるという言い方が出来るのかどうか判断に苦しみます。この辺は人工知能の理論と関わるような気がしますがオレはよく知らないので大概なことは書けませんが、とすると、人間のアウトプット・インプットと変わらない機能を持った「人間の意識のコピー」とは人工知能のことではないですか。だからこの物語は、というか人間の電脳上の意識というものが可能であるとする物語は、実は人工知能のことを言い換えているだけなのではないか、そして人工知能に”生命”という名称を与えるかどうか、ということなのではないか、とちと思いました。


そしてもう一つ、オレが思うのは、「生きている」という状態はなにをもってそう総称できるのか、ということでアリマス。
”意識”というものがあるのならそれだけで自己という存在が確立されているといえるものなのか?
ぶっちゃけ、脳さえあればそれは人間なのか?ということなんですが、さらに言っちゃうと「脳」とはどの部分を指すのでしょう?一般的に思い浮かべるのは大脳小脳の一塊ですけれども、ここからは脊髄が伸びており、さらにそこから伸びた神経系が体を覆っております。それら全てを包含しなければ脳とはいえないのではないか、という考え方もあります。つまり、人間の生理現象全てをシミュレートしなければそれは人間の”意識”をシミュレートしたことにならないのではないかと思うんです。思考するだけが意識であったり生きているということではないでしょう。


生きているという状態は様々な制約の中で存在していて、まず生存する為には寝たり食ったり病気にならんよう健康に気をつけたりする訳です。この身体性というくび木の中に浮かび上がるのが生であり、そして人間を人間たらしめている条件であって、意識と身体性は不可分であるものだとオレなんかは思うんです。生存本能の無い・必要の無い”生”とはなんなんでしょう?それら全てを取っ払った”意識”なり”思考”なりを指して”生きている”と果たして言えるのか。仮に言えたとしても、それはもはや生命でも人間でもありません。それって、”幽霊になる”って事じゃないの?そして、人間ではなくなることの”意識”を論議してもそれは虚しいものなのではないですか。
つまりさあ、観念ばかり肥大させて自分の体の存在を忘れちゃうと、こういう物語を可能にしちゃうのかな、などと意地悪なことも考えちゃったりしちゃったりするオレなのであった。


体が感じるもの、大気の温度や湿り気、太陽の光や暗闇の濃さ、体を動かすと流れる汗と熱を持った筋肉。肺の中に入る空気の暑さや冷たさ。疲労感や充足感。身体的な事柄から得られる情報もそれはやはり脳の中ではデータではあります。こういった感覚の生々しさを数値にしてヴァーチャルなものとして体験させることは可能なのかもしれません。しかしデータ化された意識の物語は、こういった身体的な生々しさというものをどこかで疎外しているような白々しさがあるんだけどなあ。これって即ち、「生」そのものの希薄さということなんとちゃうの?劇中の人間達はデータ化されたVR空間の中で不死性を得て何をやっているかというと学術に打ち込んじゃったりしてたりするんですが、本当にそんなことがしたくて不死になったの?それが「生」なの?それって楽しいのかなあ。キリスト教的な物の見方もそこにはあるような気がするのですが、永遠ってやっぱり退屈なものだとオレは思うけど。
えー、科学のこととかよく判らずに書いたのでいろいろ誤認があるような気がしますが、間違ってたら御免な!