キングコング (ピーター・ジャクソン監督 2005年 アメリカ作品)

キング・コング 通常版 [DVD]

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■「キングコング」って実際どうなのよ?
ピーター・ジャクソンの監督と知っていても劇場で見る気にならなかったのは「何故今更古いモンスター映画のリメイクなの?」ということででした。そもそも「巨大猿」と云うコンセプトに全然魅力を感じない。P・ジャクソンのことですから、どう転んでも面白い映画になっているということは判るんですが、でもさあ、何も”キングコング”じゃ無くてもいいものを。監督がずっとリメイクの夢を持っていた、ということですけれど、結局は溢れる才能とLOTRで得た豊潤な資金と信用で作られた個人映画、私的フィルム以上のものではないと思ったんですね。


乙女の祈り」のような問題作も撮っていますが、ジャクソン監督の資質は濃縮された高密度のエンターテインメント映像を撮ることだと思うんです。例えばLOTRがそれまでの映画技法を駆使した濃密なエンターテインメント映画であったにせよ、それは20世紀的映画話法の集大成的なもの以上ではなく、ある意味とてもオーセンティックな作りなんです。逆に言えばだからこそ安心して見られ、既にして円熟している訳なのですが、思いもよらない突拍子の無いもの、突出したものは撮ることが無い。その結果が「キングコング」という古典的なモンスター映画を、それもオリジナルに忠実に作ってしまう、というところに現れているのではないか。面白ければいいじゃないか、お前はP・ジャクソンに何を期待してるんだ、と問われるかもしれないけれど、それは勿論、あの溢れるような才気でもって作られた、21世紀的な”新しい何か”なんだと思う。


さてここまでケチを付けてから「キングコング」のことを書きますが。…ええと、どうしようこれ。映画にあわせて文章も長いから覚悟しておけ!ああいう映画なんでネタバレしまくりで書くからヨロシク。

■で、始まり始まりぃ〜
大恐慌下のアメリカの情景から始まるのですがもうカットの繋ぎがポンポンポンッ!と素早いんだわ!主役達が出揃う船上では、「よくもまあ濃い顔の連中を集めたなあ」とにんまり、しかも殆どのカットがバストアップ!暑苦しい(失礼)ジャクソン映画がなおさら暑苦しくなるであろう予感で胸はドキドキ!説明的になりがちな冒頭シーンをこのテンポで編集するところからジャクソン節が既に始まってます。


そして謎の島に上陸ですが、いやあ、”石器時代な方たち”登場っすよ!民主主義教育至上主義な方はいろいろ言いたいこともあるでしょうが、”原典に忠実”であることが要の本作にはそんなことは瑣末な問題なんです。これはP・ジャクソンが原典の「キングコング」に覚えた恐怖や驚きを、いかにしてそのまま再現するのか、ということが今作のただ一つのテーマなんですから。だからこの”石器時代な方たち”は本当にコワイ!あれだけの城壁を作れるテクノロジーレベルがあるのになんで石器時代な生活なんだ?などと突っ込むのは野暮の極みです。しかしよく見るとこの島には数々の遺跡も残されていて、考えるに、ここはやはり『ムー大陸』の一部だったんだ!ということに結論付けました。だから多分コングとか恐竜とかデカイ虫とかは超古代文明の遺伝子操作の産物なんだ!”石器時代な方たち”はその末裔なんだ!と勝手に納得することにして映画を見ることにします。


■コングその他ご一行様参上〜〜
あー、コングですか、コング。でかいゴリラですね、これは。…えーーーーっと。
恐竜も出ますが、「ジュラシック・パーク」とどこが違うのですか。…えーーーーっと。
でもね。あのデカイ昆虫。そして有り得ない大きさの環形動物。あのね。ありゃ卑怯だよ!コングも恐竜も怖かねえんだよ!所詮猿とトカゲだろ!でもね!ユムシやゴカイがでかくなっちゃまずいんだよ!…という訳で、キングコングの真の主役は実はあの巨大ユムシであったということなんですよ!


コングと女優の心の交流じみたことも描かれますが、要するにストックホルム症候群だろ。ってか、交流も何も、所詮サルだろ、サル。いくらTレックスの口引き裂いてもサルはサルだな。つまり「キングコング」は動物愛護映画だった、と。「ゴジラ」や「ジュラシック・パーク」の文脈で語るのではなく、「ベイブ」とか「子猫物語」の文脈で語るのが順当なんではないか!?と。え?「グレート・ハンティング」?それはちょっと違うと思うが…。


しかしコングが女優を握り締めてる絵って、オレがmomoko握り締めてる絵と大して違わないんだよな。あれほど毛深くないですが。あ、体格と頭が単純で直情的な所はいっしょです…。


■そして舞台はN.Y.だ!
で、まあね。いろいろあって、コングはN.Y.に連れて来られるわけだ。「あの生き残りの船員であの小さい貨物船にデカ猿をどうやって乗せたんだ?」「アメリカ合衆国は通関をどうしたんだ?」「あの劇場にどうやって搬送したんだ?」などと言うのは、ええと、野暮なんだからね!


例えば「ジュラシック・パーク2」で、恐竜騒動をあのまま島の中で物語を完結させればよかったもののを、恐竜をアメリカに連れ込むことで物語の展開が途中で変わってしまうにも拘らずやっぱり連れ込んじゃったのは、どう考えてもスピルバーグのコングへのパスティーシュだった訳ですよ。そのせいであの映画はなんだか2つの映画を見せられているような変な気がしたが、そういった構成の破綻を知っていてさえ、コングの物語の呪縛はスピルバーグにとっても強かったんだと思うんですよ。しかし、あれはあれで、スピルバーグ的な原典への批評行為があったのですよ。


でもね。先の理由「だって原典に則ってるんだもん」により当然ながら、P・ジャクソンは、全く批評も疑問もなしにN.Y.にデカ猿を持ち込んじゃいます。
でまあひと波乱あって劇場を逃げ出したコングは例の女優恋しさに金髪の女を手当たり次第に摘んではポイポイぶん投げてますが、アレ多分死んでるだろうなあ。こわいよおコングこわいよお。



■嗚呼コング暁に死す!
さてコング、死に場所になるエンパイアステートビルに上っていきます。そんなコングに女優もまたいっしょにビル上っちゃいますが、なんでそこまでするか?ビルは高いぞ怖いぞ。脚本家の恋人が出来てラブラブなんだし、普通そっちを心配しないか?なんでデカ猿一匹に命賭けるのかよく判らないんだが。


というかコングが女優に何を拘ってるのかよく判んなくて、「美女と野獣」のセンで考えれば”恋心”になってしまうんだろうが、やっぱり発情していたのか?そういえば、そもそもコングには何故生贄が必要だったのか、ということを考えると、人間の女の性フェロモン物質で沈静化するからだ、ということも考えられるよな。で、「コング様これでお静まりください」と。そしてこの女優のフェロモンはコングにとってかつてなかったほどの威力があったんだろう。金髪女のフェロモンは凄かったわけだ。そしてコングは失われた脳内麻薬物質を再び充填するために女優を請い求めると。納得!だからあんなに暴れるんだな!オレだって女子に冷たくされると暴れるもん!(おい)


しかしそんなコングですが建造物を破壊し市民を死傷させ街をパニックに巻き込んだわけですから当局にとっては単なる害獣です。だいたいあんなでかいバケモノを街に入れることを許した当局の危機管理と警備体制の甘さが問題を引き起こしたと思われるし、「コングに罪はない!」といわれればその通りですが、なっちゃったもんはどうしようもないんです。だから「殺っちまえ!」という訳で複葉機登場!しかし蚊トンボのように叩き落される複葉機!あー。パイロットの人たちだって罪はないはずなんだけどな…。


結局お約束通りコングは殺られ、エンパイアステートビルから落ちてゆきますが、あそこ泣くシーンらしいけど、「ま、しょーがねーだろ」としか思わなかったオレは鬼畜ですか。だってコングに殺された人たちや家族の気持ちはどーなんだよ!コングも可哀想だが死んじゃった人間も可哀想だ!


で、最後例の不細工な映画監督が出てきて、コングの屍骸の前で知ったような能書き垂れますが、あのなあ!そもそもテメーのせいだろうがよ!事の発端から経過から終焉まで全ての責任はオメーだろーがよ!なんかこう他人事のようなものの言い方にホテル火災を出したホテル社長や欠陥建築を指示した建築会社社長みたいな物凄い傲慢を感じます。でも物語はこいつの責任はスルーなのね。しかしこの騒動の損害賠償とかこいつがするのかね。市当局の責任も当然あるけど、これから泥沼のような裁判が待ってるんだろうね。どっちに転んでも多額の負債とムショ送りだろ。こいつ、終わったね。


■結論を言うと
基本的にオレは面白ければそれでいいというか、瑣末な間違いや嘘は、結果オーライで全部見なかったことにする映画の見方をするほうなんですよ。重箱の隅をつつくのは、全体を見ないことにも繋がると思ってるので。
ゴジラはなんで放射能火炎を吐くのか?それは水爆を浴びたからさ!それで十分説明されている、なぜならそれはそういうもんだから、それでいいじゃない?ゴジラが水爆の恐怖の象徴だって言うのは誰もが言ってることで、つまりはモンスター映画というのは何がしかの世相の不安が集約されているというのは周知の通りです。スピルバーグの「宇宙戦争」さえ911トラウマの映画だったわけだし。


映画キングコングに恐怖があったとしたらそれはそのオリジナルが公開された当時の世相に、あのような”原始的”なるものへの恐怖になる何がしかの要因があったからなのでしょう。そしてP・ジャクソンも同じように恐怖したわけでしょう。しかしそれを今現在オリジナルに忠実にリメイクし公開しても、当時の世相と見る観客の恐怖の質が違ってくる筈で、なんかオレはちぐはぐなものばかり感じたわけなんです。だから今回は結局重箱の隅を突付く事になってしまった。監督の持てる技量をフルに使った映画だということもわかるし、エンターテインメントとしては最上質ではあるけれど、「はあ?」と思うことが多かった。この映画に欠けていたのは、やはり監督自身の批評行為なんだと思う。でもこれだけ長々と書いたのは、やはりこの監督に期待するものが大きいからなんだよう。P・ジャクソン、次作大丈夫なんかなー。