ヒストリー・オブ・バイオレンス (デイビッド・クローネンバーグ監督 2005年 アメリカ)

銀座で初日の一回目を見に行きました。クローネンバーグはお気に入りの監督なので、取り合えず押さえとかなきゃなあ、とは思ったんですが、一般の人にそれほど知名度があるとも思えず、たいして人は入らないんだろうなあ…と思って出掛けたら。ぬぁんと、映画館のロビーが、女子じょしジョシの女子だらけではないですか!ぬかった!これは『ヴィゴさま』効果だったんだ!まさかこれほどまでに人気のある方だとは思っていませんでした、ヴィゴさま。お見受けするところ、30代前後の女性が多かった気がするんですが、なるほど、その辺にアピールする俳優なんですね、ヴィゴさまは。しかし、大丈夫なんでしょうか、クローネンバーグといえば『変態監督』の王道を行くドロドログチャグチャの描写を得意とするホラー監督ですよ。皆さん泣きながら劇場飛び出したりしなければ良いんですが…。


デイビッド・クローネンバーグはホラー監督でも特に好きな監督で、オレの日記でも『観念と変態〜デビッド・クローネンバーグ』というエントリーを書いているのでよかったら読んでくださいませ。


さて映画はというと平和な田舎町で平凡な生活を営むある家庭に暴力の影がじわじわと差し、雪崩のように殺戮の連鎖が生まれてゆく…というものなんですが。粗筋からなんとなく1971年に作られたサム・ペキンパー『わらの犬』を想像しました。あれはベトナム戦争を背景とした60年代的アメリカン・リベラリズムの敗北、といった映画でしたが、クローネンバーグはこの映画『ヒストリー・オブ・バイオレンス』を西部劇とアメリカの外交政策に例えているようです。*1ですが、オレはむしろ”西部劇”という言葉で単純化されないクローネンバーグらしい観念性を持った映画だと思いました。


ここでクローネンバーグが描くのは映画監督・北野武が得意とする暴力の恍惚と虚無です。しかしこの映画における暴力は例えば最近のトニー・スコットの映画にあるような歯切れのいいアクションへと昇華されません。どこか腹の中にどろりと溜まった未消化の獣脂のような気持ちの悪さがここにはあります。


主人公を演じるヴィゴ・モーテンセンは前半の善き父であり善き夫の仮面が剥がれた後半、常に射竦める様な目と肉食獣のように緊張感を漂わせたオーラを発し続けます。それはいつでも殺戮のスイッチが入る状態になっている戦闘機械のものです。


いつでもどんな暴力でもふるえ得る様な人間。そしてそれが日常的に行われるような人間。これは即ち狂気です。しかしクローネンバーグはいたずらに”狂気”そのもののみをテーマにする監督ではありません。前作『スパイダー/少年は蜘蛛にキスをする』でも描かれた”自分の中の自分も知りようのない得体の知れない何か”、一見普通のように見え健常に生活しているような人間の、皮膚一枚下に存在している対話不能の怪物、この自らの孕む異様さと自己疎外の物語がクローネンバーグにはあります。かつて彼のホラーで描かれた様々な”モンスター=異形”はこの疎外された”異様な自己”の変形であり、今回の『ヒストリー・オブ・バイオレンス』では”忘れ去ったはずの暴力的な自己”が、形のないモンスターとして暴れまわるのです。


自分の中にありながら自分の知りようもない”何か”、これが描かれるためにクローネンバーグの映画は気持ちが悪い。あたかも自分の内臓が自分のものではないような、それ自体がひとつの生き物として息を潜めているような感覚。かつてのような目を引くホラー描写は消えてきましたが、クローネンバーグの映画には常にそのようなテーマが内在されていると思います。


ラストについては賛否両論のようですが、特に余韻もカタルシスも無いにもかかわらず、オレは好きでした。あと、クローネンバーグの映画は意外と女性がしっかり描かれているような気がするんですが、どうでしょう。