ホテル・ルワンダ (監督・テリー・ジョージ 2004年 南アフリカ=イギリス=イタリア映画)

1994年、アフリカ・ルワンダで起こった民族紛争により100日で100万人もの人々が惨殺された。そのなかでホテルマンであるポール・ルセサバギナは自らが支配人を勤めるホテルに1200人もの人たちをかくまい、命を救う。


ジェノサイド。政治的理由や戦争、内乱などによる大量虐殺はナチスドイツによるユダヤ人虐殺が有名なのであろうが、物を知らないオレは「ああいうことがあって人間というのはきちんと学習して、大量虐殺なんて起こりえない世界になっているんだろうなあ」などと無邪気に思っていた時期があった。しかし高校生の頃ポル・ポト派によるカンボジアでの大量虐殺を描いた映画『キリング・フィールド』を観た時に、そのあまりの惨たらしさに「本当にこんなことが第2次世界大戦のあとにも起こっていたのか?」などと信じることが出来なかった思い出がある。この虐殺ではカンボジア国民の21%にあたる170万人の人たちが殺害されたり行方不明になり、文明さえも石器時代のような有様にまで退行したのだという。また中華人民共和国で1960年代後半から続いた文化大革命では「期間中の死亡者、行方不明者の数は数百万人とも数千万人とも言われ」、その途方も無い犠牲者の数は数字を読むだけで気の遠くなるような思いになる。


人類の歴史は虐殺の歴史だ、みたいな言い方があり、歴史にも政治にも暗いオレでも調べてみると心胆寒からしめるデータを読むことが出来る。下はウィキペディア『ジェノサイド』からの引用であるが、他に『集団虐殺』や『粛清』や『民族浄化』などで調べても様々な形での人間の暗い歴史を知ることが出来る。

○歴史上のジェノサイド条約に言う集団殺害罪
・十字軍によるユダヤ人、アラブ人虐殺
モンゴル帝国によるユーラシア大陸一帯の征服 (バーミヤーン等の都市等の殲滅)
・ヨーロッパ人によるアメリカ大陸先住民・オーストラリア州先住民の殲滅・圧倒
・イギリスのタスマニア人虐殺 (オーストラリア)
・ロシアにおけるポグロム
パラグアイにおけるブラジル軍による虐殺(三国戦争)
・トルコのアルメニア人虐殺
ナチスホロコースト (目的がユダヤ人の絶滅なのか追放なのか、また犠牲者の数やガス室が用いられたか否かなどについて論争がある。)
第二次世界大戦・太平洋戦争における都市に対する無差別・大規模爆撃
・アメリカの原爆投下
シベリア抑留
・中国政府(清朝中国共産党)によるウイグルチベット東トルキスタンでの迫害・虐殺・民族浄化
 *1950年の中華人民共和国チベット侵攻以降における同地での蔵族の虐殺及び追放。(参考ダライ・ラマ法王日本代表部事務局)
 *中華人民共和国における少数民族の労働改造所への強制収容。
 *中華人民共和国における少数民族への強制的な断種、避妊手術
 *中華人民共和国における少数民族の漢族との通婚の強制
・韓国独立後李承晩政権による済州島島民の虐殺(済州島四・三事件
・米韓軍によるベトナム戦争中のベトナム人非戦闘員の虐殺
カンボジアポル・ポト派クメール・ルージュ)による虐殺
イラクによるクルド人虐殺
・旧ユーゴスラビアにおけるユーゴスラビア紛争、特にボスニア内戦時の民族浄化
ルワンダ紛争における虐殺
ダルフール紛争における集団虐殺
『ジェノサイド』/出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8E%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%89


このなかのダルフール紛争スーダン西部において30年間で200万人とも言われる犠牲者を出している民族紛争であり、そして現在も進行中であるという。
映画になったルワンダ紛争はこの”虐殺の歴史”の中のひとつではあるが、柳下毅一郎氏訳による『ジェノサイドの丘』の存在を知らなければ知ることの無かった事件のひとつだった。(読んでないけどな!)そして、映画の中で語られていたのと同じように、アフリカの小国でなにかあったとしても、オレはたいした興味も無く忘れ去っていただろう。これはアフリカという土地やその国家に住む人々を民度の低いものとして無視する態度だといわれてもしょうがあるまい。


しかし虐殺とその惨たらしい行為のさまは、実は民度になど何も関係は無い。例えば25万人の犠牲者と280万人の難民を出したというユーゴスラビア紛争における民族浄化は先進諸国であるはずの西欧社会の中でまさしく起こったことであり、これは憎しみや狂気とそれによって行われる蛮行というのは人間の中に遍く存在する暗く陰惨な感情のひとつであると言い切ってしまいたくなりさえする。


人間は条件さえそろえばこのように殺し、犯し、壊し、盗み、あらゆるものを屍しか残らない世界に変えることができるものなのだ。ヒトラーポル・ポトフツ族急進派だけが特別に異常な存在だったわけではない。彼らはその時その時代の人々の歪んだ恐ろしい感情を凸レンズのように収束して見せたに過ぎない。戦争や虐殺の恐ろしい所は、自分が殺される、ということだけではなく、自分も殺す側に回る事が有り得る、ということだ。それはこのオレだって例外ではないのかもしれない。


映画の冒頭、主人公ポール・ルセサバギナを演じるドン・チードルが「品性が大事なんだ」と語る場面がある。この言葉は映画の中でもう一度か二度語られ、彼がこの”人間としての品性”ゆえに人々を救おうとしたことが伝わってくる。憎悪や狂気に捕われず、あくまで”人間であろう”とすること。品性とは別に1200人の人間を救うことではなく、日常生活で生きる態度そのものだ。日頃下品でインチキなエントリばかり書いているオレが言っても説得力が無いが、人として生きていく上で「ここまでは譲れないぜ」というものを持っていることは、実は大事なことなんじゃないかと思ったりする。この日本では戦争も虐殺も取りあえずないのかもしれないが、しかし漠然と生活しながら、人が理不尽なシステムだの得体の知れない一般論だの釈然としない理屈だのに取り込まれてしまったり流されてしまったりすることは有り得るからだ。虐殺を促したフツ族のプロバガンダ・ラジオのような憎悪や嫉妬や恐怖を煽る装置はこの日本にだってある。ネットでもよく見かけるよな。それら心性の貧しさをあからさまにしたものに与しないこと。これも、ひとつの品性の問題なんじゃないか。今日はなんか優等生的だな。知ったような事書いてスマン。でもな、オレは、全ての事はどこかで繋がっているんだと思うんだよ。