嫌悪・ファッショ

下らなさ過ぎて語る気も無かったのだが、ネットやメディアで目にする○○嫌悪だの○○ファッショなんていうのは単に自分のルサンチマンを糾弾しやすい対象に投影しているに過ぎない。それは自分の不幸や無知や狭量さを、差別しやすい第三者にスライドしているだけのことだ。そしてそれらを語る人は必ず紋切り型な一般論や風説をバックボーンに語ろうとする。どこかに集団の論理を後ろ盾にしようとする。違った視点、個別な視点、全体像から見わたした相対的な視点が無い。つまりそこには個的な思考などというものが無い。そもそも憎悪などというものは、心の健康な状態で生まれるものではないではないか。嫌悪する者、ファッショする者の憎悪の総量は、オレの知りたくもない彼ら自身のフラストレーションの総量でしかない。