ルネ・ラルーと宮崎駿

ファンタスティック・プラネット [DVD]

ファンタスティック・プラネット [DVD]

ルネ・ラルー傑作短篇集 [DVD]

ルネ・ラルー傑作短篇集 [DVD]

ファンタスティック・プラネットはフランスのアニメ作家ルネ・ラルーによるSFアニメ。切絵の手法を使った奇妙な動きのアニメーションと、ロラン・トポール原画による暗く陰鬱でシュールな絵、そしてペシミズム溢れるストーリーでカルト的な人気を誇るアニメーションである。1937年、フランス-チェコ合作。
バンド・デシネと呼ばれるフランスコミック界は以前も紹介したエンキ・ビラルメビウスなどの世界的に有名な作家を擁しており、大友克洋をはじめとする日本の漫画界に与えた影響は計り知れない。ユニークでオンリーワンなセンス、世界観。それはこの「ファンタスティック・プラネット」のかつて誰も見た事のないような異様な世界の映像を見て貰えば誰もが納得するであろう。オレ的にはロラン・トポールは諸星大二郎にその影響を感じるな。
この物語の舞台は惑星イガム。ここに住む巨人族ドラーグ人は、彼等から見れば豆粒ほどの大きさの人類を奴隷とし、迫害していた。しかしある日人間達はドラーグ人に叛旗を翻し…というストーリーなのだが、この映画での人間が、虫けらのように扱われ、嬲り殺されペットにされる様子が凄まじい。そういえば「猿の惑星」を思わせる部分もあるが、あの原作小説の作家・ピエール・ブールもフランス人だったな。
映画の中の世界の様子、生物、植生、風俗、生活、どれをとってもあまりに異質すぎる。知っているどんなものとも似ていない。この徹底した異様さが逆に惑星イガムの存在感を際立たせている。
なんか、言葉で説明しているのが虚しくなってきたな。例えばSF小説「地球の長い午後」を思わせるような、「世界と宇宙全てを構築し想像する力技」を感じるんだよ。この途方もないイマジネーション。不気味なアニメではありますが、SF好きで未見の方には是非お奨めします。
ルネ・ラルー傑作短編集」はこの「ファンタスティック・プラネット」の監督の2本のアニメ短編を収めたDVD。「かたつむり」は巨大化したカタツムリに世界が滅ぼされてゆく様をやはりシュールに描く。ここでもロラン・トポールの異様な絵が効いている。「ワン・フォはいかにして助けられたか」は古代中国を舞台にした幻想譚。しかし原画が凡庸であり、駄作という訳ではないがこれまでの突出した物を感じられない、ありがちな作品になっている。結局ルネ・ラルーの作品はロラン・トポールに負う所が大だったのだな、と思わせる。
ところで、宮崎駿って、ルネ・ラルーには否定的なんだよね。なぜかって言うと、宮崎はアニメーターというのは絵を動かしてナンボ!動かないアニメを作ってアニメなんてほざいてる奴はけしからん!って言う人なんだよ。宮崎が何故評価されているかというと、あの素晴らしいストーリーテリングとは別に、あたかも生きているかのように動く・動かされるアニメーションの高度なスキルを持っているからなんだよ。
ジャパニメーションとか言って日本のアニメは持てはやされているけれど、実際TVで見る事が出来る商業的に量産されたアニメーションの殆どは、注意深く見ていると、実は止め絵や単に一枚の絵をパンしただけの紙芝居程度の動きしかしていないアニメだという事が判る。納期やコストの問題だと思うんだけど、宮崎にとってはこんなものアニメでも何でも無いんだよ。
このルネ・ラルーにしても、確かに原画は独創的だが、ことアニメーションという事に関するなら、宮崎にとってはダイナミックさに欠けた作品だと言う事になるのかもしれない。ただ同じ切り絵アニメでも世界的に有名なロシアのアニメ作家ユーリ・ノルシュテインの作品だと宮崎はベタ褒めなんだよね。
宮崎は他にも手塚治虫虫プロ時代のアニメにも噛みついていて、あれはアニメ技術云々とは別に、TV局にアニメを安く買い叩かせる下地を作ったのが手塚プロだっていうことを言ってるね、
さらにラルフ・バクシのアニメ「指輪物語」(ロード・オブ・ザ・リングと同じ原作を持つアニメです。)にもその歯牙を向けていた。あの「指輪物語」というアニメは《ロト・スコープ》と呼ばれる技術を使ってるんだが、これって、実際に人間に衣装着せて演技させ、それにアニメ的に彩色したものなんだけど、「こんなもんアニメの訳が無い!」と激怒してたんだよね。つまり、現実の動きだから、それがリアルだというのはおかしいだろうと。アニメの技法とは、現実の動きをなぞるものなのではなく、アニメという話法でもってデフォルメされ抽出された動きだからこそ、はじめてアニメーションとして完成されたものが出来上がるんだぞ、と。逆に言えば、この批評精神こそが宮崎を宮崎たらしめているのであり、だからこそ、あの胸躍るような宮崎世界を作り上げる事が出来るんだろうな。