Larry Burrows, Vietnam

Larry Burrows: Vietnam

Larry Burrows: Vietnam

ベトナム戦争(べとなむせんそう 1960年 - 1975年)は、インドシナ戦争後に、ベトナムの独立と南北統一をめぐって戦われた戦争。宣戦布告なき戦争であるためベトナム紛争とも呼ばれる。第二次インドシナ戦争ともいう。(出典: フリー百科事典ウィキペディア

ベトナム戦争写真集。この写真を撮ったカメラマン、ラリー・バロウズは1971年、ベトナムにおいてヘリコプターによる取材中に撃墜され、還らぬ人となっている。
物凄く不遜な事を言うけれど、写真を見て思ったのは、なんだか「映画のようだ」し、「ゲームのようだ」ったという事。映画はブライアン・デ・パルマの撮った「カジュアリティーズ」に雰囲気が似ていた。畑の中をアメリカ海兵隊がうろうろしているっていう絵。ゲームはPCゲーム、その名も「ベトコン」。米軍駐屯地の掘っ立て小屋な雰囲気、通信兵の持つ通信器具がでっかい受話器だということとか。こういう事言うとリアリティの欠如を指摘されるけど、むしろこうした歴史をプレイバックできるメディアの進化の方を指摘してもらいたいと思うんだけど。
ベトナム戦争写真は数々の生々しく陰惨な写真が残っているけれど、この写真集では戦争の有様とあわせ、兵士の苦悶、悲哀、疲弊した表情などに賢明に迫っており、決して悲惨さばかりを追った写真にはなっていない。
まあなにしろ、ここに載っている写真の海兵隊員は20代なんだろうなあ、と思う。世界一豊かな国で明るい希望と夢だけを吹き込まれてた連中がいきなりジャングルに放り込まれて、亜熱帯のうだるような気候の中、泥と雑草にまみれて人を殺せ、と命じられる。ただ、所詮国家なんてそういうものだと思うし、また、幸福の裏側というのはそういうふうに出来ているのかもしれない。ある種の幸福とは他者の不幸によって成り立っている訳だしな。オレらの便利さは誰かの不便で成り立ち、どこかの国の経済的豊かさはどこかの国の経済的貧困によって成り立つ。真の平和が欲しかったらみんなで平等に不幸であるしかないんだよ。
オレは戦争の是非だの平和の意義だの、オレの日記で書きたくもないし、まあ実はどうでもいいと思っている。戦争は起こる時には起こり、人は殺す時には殺し、殺されるものなのだと思っている。
戦争の本当の恐ろしさは、人が死ぬ事ではない。人は、やろうと思えば、どんな人間でも、誰でもいつだって簡単に人を殺せる、ということだ。
20世紀末の東欧の旧ユーゴ民族紛争なんか見ていると、あれなんて結局昨日まで仲良くやってたご近所同士が突然殺しあいを始めた訳だろ。日本で言うとなんだろ、突然関東の人間と関西の人間が殺しあうような感覚。信じられないだろ?有り得ない、と思うだろ。それが起こっちゃうんだよな。結局、戦争の歴史は人を平和に目覚めさせるよりも、より複雑で巧妙な戦争へと進化しただけなのではないかと思う。
写真集の話に戻ろう。一番新鮮だったのは爆撃機内からの映像だな。今まさにナパーム投下した写真などは圧巻。燃える村落。あと当時の地球最高の戦争テクノロジーで作成されたファントム爆撃機が、アジアのド田舎の田んぼに血眼になって銃弾撃ち込んでる写真は滑稽を通り越し、「ああ、どんなに勉強できても馬鹿は馬鹿なんだな」と救いようのなさを思わせる。
それとベトナム戦争のヘリコプターというとどうしても「地獄の黙示録」なんかの戦闘ヘリを思い起こすけど、これは運搬用なのかな、くの字に曲がったパイプみたいな格好のヘリコプターなんかもあったんだね。
一番緊張感を漂わせているのは従卒した戦闘ヘリ内で機銃掃射担当の兵士が被弾、負傷、死亡するまでの様子を仲間たちの混乱や悲嘆の表情を合わせ捉えた連作写真。現場での怒号やヘリのプロペラ音、風を切る音まで聞えてきそうな恐るべきリアリティ。
間間にベトナム民間人の映像が挟まれるのが救われる。ベトナムという国は、このベトナム戦争に限らず、その歴史を遡れば絶えず近隣諸国に蹂躪され続けてきた国家なのであった。だからこそ民族自決の気概の高い国民性なのだと思う。今ベトナムは貧しいがとても美しい国だと聞く。なんか、ちょっと行ってみたくなった事のある国ではある。