デビッド・ボウイ・リバイバル その6

《ティン・マシーン》解散後の久々のソロ、ブラック・タイ・ホワイト・ノイズは毒気や迷いが抜け、何か飄々とした感もある好アルバムだった。これまでのボウイのエキセントリックさ、難解さが薄らぎ、余計な形容詞がない一人のベテラン・ロック・アーチストとしての、等身大のデビッド・ボウイがあった。なんか、無理したりしてないんですよ。力強く、明快でストレート、しかしボウイ独特の音作りは健在。多分、このアルバムで、なんだかやっとボウイは地に足が着いたんだろうと思う。そして、ああ、ロックンローラーだって、歳をとるのさ、でも、いいじゃないか、人は歳を取るものなのだから、としみじみ感じた。
その後発表されるアルバムはどれ一つとっても安定した完成度だった。
《アウトサイド》は以前からボウイが得意としていたコンセプチュアル・アルバムの再来。今回のボウイの役回りは映画「セブン」を彷彿させる猟奇殺人犯を追う探偵の役。音的には暗く不気味な雰囲気と歪んだ痙攣的ギターサウンドがスケアリー・モンスターズ風だが、あれよりも抑制され計算された音作り。暗い、とはいってもそこはボウイ、時にはジャズテイストまで感じさせるアレンジは抜けがよく、決して気の滅入るような出来ということではない。実は近作のアルバムでは1番好きかも。
その次のアルバムが《アースリング》。これがまた痛快なアルバムで、ボウイがUKクラブシーンに目配せしていたと思われるドラムン・ベースの打ち込み音満載。なんて新し物好きなんだろう、と最初聞いたときはニンマリした。高速リズムはとても今風だし、全体的にも結構エレクトリックな音で、それをあっけらかんと思い切りよくやるところが小気味いい。
アワーズ…》は前3作ほどまとまりはないにせよ、前3作よりも軽やかでリリシズムさえ感じさせる音。でも1番好きな曲は暗く歪んだ「サムシング・イン・ジ・エアー」だったりする。《ヒーズン》はバラエティに富みつつもとても1曲1曲のクォリティとまとまりがいい、実にコントロールされているアルバムだと思うし、最新作《リアリティー》に関してはなにしろ元気よすぎ。もう60歳近いだろ!日本で言えば還暦だぞボウイ!赤いちゃんちゃんこだぞボウイ!
なにしろこの「生涯現役」なテンパリ方を目にするだけでオレなんかは胸にこみ上げてくるものがある。オレが今回こんな長い文章を書いたのは、実はこの1点について言いたかったからなのよ。これ、「頑張っている」とか、そういうレベルのものでは全く無い理由からだ。
実のところ、ボウイの音楽って、全然聴かなくなっていたんだよね。ロック自体聞かなくなったし。ところが先週、随分前に買ったけどつまらなくて1回も通して聞いてない《アウトサイド》をちょっとした理由で聞き直したら、何故か突然「このアルバムってよく出来てるんでねえか?」と理解できてしまったんですよ。こういうのって不思議だよね。それまでは退屈だったのに、ある日突然魔法が解けたように理解できる音楽。きっと、時間が経って、なにがしかシンクロする要素がオレの中にプラスアルファされていたんだろうなあ。
それからは一気呵成。あたかも別れた恋人と再会したら再び燃え上がっちゃったみたいな。焼けぼっくいに火がついちゃった状態。そうして、あれからずっと、ボウイ漬けの毎日である。
昔聴いていた音楽をもう一度引っ張り出して聴く時、理由には二通りある。一つ、今より昔のもののほうが聞いてて楽だから、、懐かしいから。もう一つはその音楽の持つリアリティが過去と同じ様に、今の自分にも有効だから。なんだろう、今になって、10代の頃みたいな、(そしてボウイの音楽のような)不安定で混乱した情動が、またオレに戻ってきているんだろうか。
よく言われるけど、もともとロックって、初期衝動の音楽でしょう。うぜえ!むかつく!やりてえ!ってさ。でもただそれだけじゃあ飽きるし馬鹿の一つ覚えになっちゃうから、その初期衝動を少しずつ批評し対象化してゆく、というのがロックの進化だったんですよ。しかし、顕微鏡レベルまで解体され対象化され、死体標本と化した初期衝動=ロックは、今度は逆に批評されすぎて何も新しい事が出来なくなってしまったと思うんです。
それとは別に、初期衝動って、何時まで持ち続けるのよ?ずーっと初期衝動だけだとやばくないか?ってのもありますよね。それらは批評し対象化する事によって昇華されるわけでしょう。そしてそれは大人になる、ということでしょう。だからロック・アーチストが歳を取ってロック的なモチベーションが落ちていくのはある種仕方のない事ですよね。ってか、金儲けちゃったらだいたいの欲望も充足されるでしょうし。
にも拘わらず、青年期の初期衝動など昇華された後に、それでもまだロック・アーチストとしてアグレッシブだ、ということは、これは尋常な事ではないし、ある意味まともな事ではないんです。それはもう、初期衝動でもなんでもなく、そのアーチストの生が根本的に不幸なのか、或いは天才でどうしようもないのか、或いは両方なのだと思う。ロックって、他のジャンルの音楽と違って、円熟とパッションは別物だったりするからね。
デビッド・ボウイの音楽というのは、これはデビューしたその時から、徹底的にアグレッシブです。ボウイの曲に、癒しとか慰めとか泣きの曲は全くといっていいほど無いんです。これは恐るべき事です。逆に言えば彼は何に対しても慰めや癒しが欲しいなんて思ってないんです。
有名な話ですが、ボウイは精神異常者の多い家系に生まれ、兄は自殺し、そして自分もいつ気が狂うかわからない、という状況で、とっくに死んでるかもしれない量のドラッグをやりながら、初期〜中期の神がかりとも言える音楽を作ってきたのです。彼にとって慰めだの癒しだのは停滞でしかなく、限りなく死に近づく行為でしかなかったのかもしれません。絶えず異常なテンションを持ち続け、今という時間を音楽へと結晶化させること、それしか彼の魂を救える方法は無かったのでしょう。
ボウイの音楽が、ありふれた欲望や初期衝動を音楽にしなかったのはそういうことからだったのだろうし、彼が「生涯現役」なのはそんな理由からなのでしょう、それが幸福な事なのか不幸な事なのかはべつとして。しかし、だからこそ、世界中に存在する、”生”そのものに混乱している魂がボウイの音楽に共感するのだと思います。そして、今のオレにも。

ボウイの事は、いつかはてなで書いてみたかったんだけど、書き始めたら絶対長くなる、と思ってなかなか手を付けられなかった。今回も、最初はただ単に「最近、ボウイの、昔の作品じゃなくて近作ばかり聴いているんだ」ということだけを書こうとしたんですが、結局ファン歴全てを遡ってしまった…。お陰でオレの日記中最長の文章になったと思う。(調べた。原稿用紙40枚ぐらいになっていた)もしも全部読んでくれた人がいたら、付き合ってくれてありがとうございます。
そういえば、ボウイの演るロックは、どれもギターが抜群にカッコよかった。
ああ、ギター弾いてみてえ。爆音鳴らしてえ。

《この稿終わり》

Outside

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Earthling

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Hours

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Heathen

Heathen

Reality

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