ブラック・マシン・ミュージック―ディスコ、ハウス、デトロイト・テクノ / 野田 努

ブラック・マシン・ミュージック: ディスコ、ハウス、デトロイト・テクノ
――何故皆は俺の音楽にコネクトするのだろう。それは世界が皆に苦い思いをさせてるからだ。/デリック・メイ
――希望は過去にあるのではなく、未来にある。/ジェフ・ミルズ

テクノとは時計仕掛けのソウル・ミュージックである。

社会のシステムの合理化・近代化のなかで選別され、こぼれ落ちる魂はいつも必ず存在する。人が社会において“人材”であるためには余計な枝葉など切り落とされていたほうが効率的だからだ。その人間をその人間たらしめているのはその枝葉であるはずなのに。

音楽は、少なくともかつてのロックミュージックは、これらこぼれ落ちたオルタナティブな精神と情動を掬い上げるための装置だった。しかしもはやロックはマス・マーケットの中でより洗練されクレバーに飼いならされてしまっているように思える。ジャズがその最盛期に先端的な音楽であったにも拘らず、ジャンルとして消費され保守的な芸能になっていった経緯と似ている。80年代、アメリカのシカゴでは、こぼれ落ち、アンダーグラウンドで生きる人間にとって、その救済と成るべき音楽はハウス・ミュージックであった。

ハウス・ミュージック。それは、マイノリティである黒人の、さらにマイノリティであるゲイたちの音楽である。

音楽でしか救われない、という状況を想像したことがあるだろうか?世界の全てから拒絶された彼らにとって、ただ一つの救いは、音楽とダンスの歓喜と高揚の中で全てを忘我すること。世界が24時間の情事であるかのように生きること。射精は一瞬だがダンスの絶頂感は延々と続くからだ。永遠に続くかと思われる歓喜を生み出す為に発明された音楽。それがハウスミュージックである。そしてこのハウス・ミュージックの思想はその後のテクノ・ミュージックに受け継がれることになる。
ここで注目したいのは、彼らが(現実的な)「世界を変えよう」とは決してしない、むしろ積極的に現実から離れていこうとしていることだ。それは正しい態度か?と疑問を持つ人もいるかもしれない。しかし立ち向かうだけが変革なのだろうか。自らの魂を救済する術を持つこと。世界の有様を想像力で幻視すること。心の内面を変えてゆくことによって成り立つ変革もあるのではないか。

そして、デトロイトである。デトロイトは、1901年にフォード自動車が設立され、世界で始めてのオートメーション方式を導入したことから、工業都市として飛躍的な急成長を遂げることになった。この成長を陰で支えたのが黒人労働者だった。ピーク時には600%の黒人人口増加率を数え、全米でも有数の黒人都市となる。ちなみにソウル・ミュージック・レーベルとして有名なモータウン・レコードはブラック・ビジネスにおけるゴールド・ラッシュを見込んでこのデトロイトに設立されたのである。

しかし、デトロイトフォーディズムの破綻、そして人種差別に対する相次ぐ暴動によって衰退し、スラム化してゆく。1967年のデトロイト暴動では国防軍のパラシュート部隊が導入され、戦車までが街を走ったという。暴動は街の6分の1を破壊した。街は焼かれ、街は崩れ落ち、街は廃虚になった。白人富裕層は街を逃れ、貧しい黒人だけが残ったデトロイトの市内は、黒人人口比率80%という全米で最も高い数字になっている。ゲットーは犯罪の温床となり、犯罪率の高さ、中でも殺人発生率では全米1位になるほど荒んだ街へと変貌してしまっていた。*1

そして、この希望のない街で、黒人青年達が希望の片鱗を見つけようとしたもの、それが音楽だった。それも、愛や恋についてべちゃべちゃ歌う自らの街の生み出したモータウンソウルのような音楽ではなく、内輪の虚勢の張り合いでしかないヒップホップでもなく、この現実と決別し、確固たる未来と、そして“ここではないどこか”を目指した音楽。なおかつ、工業都市とその廃虚の上で鳴らされるべき音楽。そんな音楽を目指す彼らの手本になったのはヨーロッパの未来主義的ニューウェーブシンセサイザー音とアンダーグラウンドのマイノリティー達が鳴らすハウスミュージックの逃避的な快楽主義の音であった。

そして、クラフトワークハウス・ミュージックを父母に持ち生み出されたこの音楽は、「テクノ」と呼ばれるようになったのである。

日本にはわかりやすいゲットーもわかりやすい貧困もない。皆が皆同じ様な生活をしていると信じて幻想のプチブルジョアの世界で仲好しこよしだと思い込もうとする。そこには逸脱もなく脱線もない。しかし具体的な貧困なんかなくとも自分たちの世界・社会がどこかで空洞化・空虚化していっているのを気付いている人はいるんじゃないだろうか。

例えばカール・クレイグの“At Les”というタイトルのテクノチューン。カール・クレイグはこの曲を、デトロイトの夜と、満月と、廃虚のサウンドトラックのような曲だ、と言った。オレはそんな事は知らなかったが、静謐で、孤独で、しかしどこかで魂の温もりを感じさせるこの曲を、東京の夜空を仰ぎながらいつも聴いていた。多分その時、オレは、カール・クレイグと同じものを心の中に見出していたのだと思う。

デトロイトの廃虚は日本にはない。しかし空疎化した世界という廃虚のような心象はどの世界のどの人間も持ちうるものなのではないか。オレがデトロイトテクノを聴き、その音楽を美しいと思い、その音楽に心を奪われるのは、システムからこぼれ落ちた一人の人間として、心象の中にどこか廃墟のような光景が居座り続けているからなんだと思う。そして“ここではないどこか”に救いと安らぎを求めたいと思う気持ちもまた。

メランコリーと確信犯的な現実否定の音楽。アウタースペースとコズミックワールドを目指す音楽。約束されたサイエンスフィクション的未来についての音楽。廃虚の存在する世界のありとあらゆる心と場所で、デトロイト・テクノは鳴り続ける。時計仕掛けのソウル・ミュージック。それが、テクノ・ミュージックである。

本書はディスコカルチャーがどのようにマイノリティー達の音楽であるハウスミュージックへと受け継がれ、そしてデトロイトへと派生したそれがテクノとしてアンダーグラウンドコミュニティの音楽たり得たかを歴史をなぞりつつ解読してゆく。そしてそこにはアメリカ黒人達の苦闘の歴史が底流として流れていることを見逃してはいない。マイノリティー達がどのように希望を見つけ希望を紡いでいったか。アンダーグラウンドの中に自らの居場所を確保し存在理由を見つけていったか。そしてその音楽が何故、我々を感動させ、踊らせるのか。現代の黒人音楽の先端で何が起っているのか。この本はそれらを詳らかにし、ダンス・ミュージックの未来を語っていく、全ての黒人音楽とダンス・ミュージックのファン必読のバイブルである。

*追記
もしもデトロイト・テクノに興味を持った方がいたならこちらのアルバムをお薦めします。ローラン・ガルニエはフランス人のDJですが、世界的に有名なDJです。デトロイトもののMIXはいろいろ名盤はありますが、彼のMIXしたこのアルバムがデトロイト・テクノ入門としてもいいのではないかと思います。というか、単にテクノのMIXCDとしても最強にロマンティックでドラマティックな展開を聴くことができます。1曲1曲がどう、ということではありません。これはCD1枚に収められた1曲のドラマだと思ってください。録音は少し前のものですが、MIXCDとしてはテクノ史上に残る最強のクオリティになってます。

X‐MIX‐2

X‐MIX‐2