SINGLES and STRIKES / 電気グルーヴ ASIN:B0001FAAYK

実は電グルはメジャーデビューの「フラッシュパパ」の頃から、なんとなく聴いているグループだ。なんとなくアルバムを買い揃え、なんとなく卓球のソロも買い揃えていたりする。この「なんとなく」というのがクセモノで、要するに、物凄く好き、というほどでもないのである。物凄く好き、ってほどでもないのに、ベストまで買ってしまうのは、結局、電グルのセンスしてる奴は電グルしかいないから、ってことなんだと思う。
電グルはある意味特異なグループだ。ジャパニーズ・テクノのイノベイターでありクリエイターであり海外テクノのインストラクターでもある彼等だが、それは電グルの一面でしかない。奇妙なセンスの笑いを得意とし、オールナイトニッポンのレギュラー出演等、そういうアホアホな方面でも人気があったりするのだろうが、彼等は決してお笑いではないし、当然コミックバンド(古!)などではない。どれも中途半端なのだ。
どうも電気グルーヴの魅力はこの、「本気でやらない、ならない」「スカした感じ」だったのではないかと思う。お笑いで逃げるのは、テクノの機械的な音色を好むのは、"生々しい感情”を徹底して拒否した彼等のスタンスだったのだと思う。そこがオレには時々物足りないものに感じて、悪くは無いが、「なんとなく」聴くグループになっていたのだ。
だが、"生々しい感情”を表出しないのは、電グルを好んで聴く世代全体に共通した“気分”だったのではないか。愛だの希望だのを高らかに歌い上げるうそ臭い連中に辟易していた日本の音楽ファンだって多いはずなのだ。
笑いとは裏を返せば怒りなんだと言う説がある。確かに笑いはそもそもアグレッシブなものだ。電グルの連中が何に苛立っていたのかオレは知る術はない。しかしそれは多分生きていることそれ自体の不条理さに根ざしているのだろう。いや、別に、もてたいとか金欲しいとか腹減ったってことでもいい。しかし、自分と言うものを知ってしまうと、限界だって見えてくる。苛立ちは苛立ちのまま終わるしかない。しょうがないじゃないか。あとは――笑うだけだ。だから、電グルの音には何か、笑いのセンスと一緒に虚無的なものを感じていた。
ただオレは、やってることは面白いが、きれいに自己完結した音だなあ、と思っていた。語りかけてこない。共感できる部分が希薄だったのだ。それがオレが電グルにのれなかった理由だった。
しかしである。「スカした」電グルがパンツを脱いだのである。シングル、「N.O.」である。歌詞がマジだった。いや、オレはマジな歌詞など聴きたくない。しかし、スカした電グルがパンツを脱ぐほど追い詰められて作った歌だっていうのがよく判るのである。ここで、電グルは、歌詞を通じて始めて、「オレは苛立っている、オレは絶望している」ということを表現している。しかも極上のポップ・チューンでだ。学校も家庭も、カーテンも花瓶も無い生活。それは自由だが空っぽな生活、ということだ。空っぽで、そして苛立ち、怒り狂っていた。オレは素直に感動した。
それからの電グルは一皮剥けたと思う。なにしろ、パンツを脱いだんだから、あとは剥くだけである。アルバムではこれまでのお笑い路線はより狂騒的に、訳の判らないものになっていったが、マジな曲1曲が入っていた。シャングリ・ラ、虹、ナッシング・ゴナ・チェンジである。どれも電グルの代表曲になったと同時に、テクノ・チューンとしても素晴らしいものであった。
特にオレはアルバム、「Dragon」(ASIN:B00005G5WS)収録の「虹」が好きだ。この曲はオリジナルバージョンが10分53秒ある大作なのだが、少しも長さを感じさせない、いや、このまま永久にこの音色が続いてくれればいいのに、と思わせるような美しい旋律と美しい歌詞が何処までも続く名曲である。
実を言うと、つい最近、セーシン的にボディ・ブローぶちかまされていたことがあったのよオレは。白状するよ。参ったよ。ヘロヘロだよ。いつだって勝ち目無しだもんなあ。そして負け続けてばかりいると、それが普通で、当たり前のことなんだな、とさえ思えてくる。朝起きると既に気が滅入っていた。通勤の途中、早朝のがらがらの電車の中で、晴れ渡った8月の空を眺めながら、iPodに入れたこの「虹」をエンドレスで聴いていたよ。
でもさ。なんだか、聴いてたら、少しだけ、救われたよ。まだ、何とかなるだろう、取り合えず、今日は生きられる、と思ったよ。
遠くて近い、掴めない、どんな色か判らない、虹。その意味するものは、それは、幸福、ってことなんだろう。