ジェローム神父 ホラー・ドラコニア少女小説集成/マルキ・ド サド (著), 澁澤 龍彦 (翻訳), 会田 誠 (画)

ジェローム神父 (ホラー・ドラコニア少女小説集成)
この間夏休みを取ったオレは特にやる事も無く、 澁澤 龍彦 翻訳のサドを読み耽っていた。
…と書くとなにやらカッコよさゲであるが、澁澤もサドも初体験です。ポッ。生半可に論じる対象ではないのは重々承知ですが、澁澤 龍彦という人物が知性の高い変態だということは理解できたし、(ああもちろん褒め言葉ですよ)マルキ・ド サドも同様に変態ではあるが、彼の場合は時代や宗教的背景を鑑みなければ安易な感想を述べられないなあ、とは思いました。
いや、そうは言っても澁澤の訳文と語句の格調高いこと。「裁尾」とか「腎水」という言葉わかりますか?文章の前後で判断すると前者が「挿入」、後者が「精液」ということなんだろうなあ。それにサドの物語ははっきり言って、面白かった。己の性的快楽の為に拉致監禁強姦殺傷と悪逆の限りを尽くす修道僧の逸話ですが、妥協も中庸も一切無いアナーキーな哲学に満ちた物語はいきなりビンタでも張られたみたいに痛快でしたよ。古典ということになるのでしょうが、今読んでも少しも古さを感じません。
それにサドに関しては映画「クイルズ」を観て非常に感銘を受けていた、ということもあります。この映画は「表現するということは何か」そして、「表現することのリスクさえも恐れず表現に固執する人間のデーモン」を描いた傑作だと思う。それが赤本ゾッキ本にしか載らない様な表現であったとしても、便所の落書きみたいな物であったとしても、人は何故表現するのか?という問いと結末がこの物語にはある。この映画が何処までサドの真実を描いているのか知らないし興味もないが、一度でも“表現”というものに係わった事のある人はこの映画におけるサドの鮮烈な生き方は、ショッキングであると同時に勇気を与えてくれるのではないでしょうか。
さて渋沢 龍彦もマルキ・ド・サドも今まで読んだこともないオレがこの本に興味を持ったのは、ひとえにこの本が会田誠とのコラボレーションだと知ったからです。
会田誠。芸術家であると同時にアホ芸術家でもある。彼の作品は「判り易く」「無意味」で「下品」であるにもかかわらず「芸術」を標榜してやがる。とんでもねえ奴だ。いやなんて面白いんだ。彼については別項で話をします。
この本はこの3者の奇跡的な組み合わせで生まれた、まさに編集者冥利に尽きるような粋な“書物”です。版形、紙質、装丁、印刷、フォントのサイズと種類とレイアウト、こういったもの全てをひっくるめて本は“書物”になるんだと思う。その点この本では大きめなファントにルビまで振ってあって、でも、内容は淫蕩な小説で、無意味に栞紐が太くて…という遊びが実に楽しい。手に取るのが楽しい、というのが読書の一つの喜びであるなら、紙の書物もまだまだ生き残れるはずじゃないでしょうか。
この本では澁澤とサドの知的だがディレッタントとペダントの臭いのする格調の高さを会田の挿絵がいい意味で中和していて、彼等の知の剥き出しの部分に触れたような気にさえさせます。
なにより会田誠の表紙、挿絵が素晴らしい。美しく、猥褻で、倒錯していて、なおかつ、無意味なんです。