豆腐小僧双六道中ふりだし 京極 夏彦 (著)

豆腐小僧双六道中ふりだし
本のサイズが縦16センチX横16センチX高さ4センチ。どういうことかというと、「豆腐小僧」だけに”豆腐の形をした本”なのである!ううむ、やられた…。表紙も装丁もどこと無く可愛らしくて楽しい。
”妖怪”とは観念に過ぎず、そして観念は実体を持たない。実体を持たないものは現実の世界に物理的な影響を与えることはできない。つまり、”妖怪”というものはそもそも無い、のであるが、その”観念にしか過ぎない存在”が人格を持ち、それぞれが会話し始めたら…という、「ない」を「ある」に仮定して始まる話なのである。ややこしい。
いつもなら、”妖怪”という観念、つまりは想念というものを持つ人間の側の物語がメインで語られ、その人間たちの想念の奇怪さ、グロテスクさが”妖怪”というものに擬人化されて語られるのが京極夏彦の小説の真骨頂であり、そして、その小説の中では「この世に不思議なものなど存在しない」、と登場人物の京極堂が語るがごとく、超常なものなど存在せず、真に怪しげなる物は人の心なのだ…、というのが主題になってる。
しかしこの「豆腐小僧」ではそれが逆転する。”怪しげなる心の闇”をとりあえず妖怪という擬人化された人格として提示し、その妖怪をメインの登場人物(?)として登場させることにより人の物語は背景へと退いてしまうのだ。
この物語では豆腐小僧を始めとする沢山の妖怪たちが登場し、珍妙な騒動を起こしてゆく。ただ、なにしろ大前提として「観念でしかない」存在なので、本当に珍妙な騒動を起こしているのは実のところ、物語のバックグラウンドである人間のほうなのだ。…ええと、ややこしいですね?実際には幕末の日本の混乱のなかで右往左往する人々の物語でもあるんですよ。
で、ここまで書いてなんだが、オレは楽しめなかった。実験としては面白いが、物語としては面白くない。ノレないのだ。取り合えず京極夏彦は全巻読破したが、「どすこい」よりも「ルーガルー」よりも面白くない。テンポが緩いのだ。いや、テンポが緩いといったら、去年の夏出た「陰摩羅鬼の瑕」も、749ページもある本の半分まで読んでも何も起こらないという凄まじい内容だった。それでも面白かったけどね。出来が悪いわけじゃないんだけど、どうもオレのペースに合わなかったんだろうなあ。