現代に生きるということの業病〜スパイ小説とジョン・ル・カレ

ナイロビの蜂〈上〉〈下〉 集英社文庫 ジョン・ル・カレ (著), 加賀山 卓朗 (翻訳)
ナイロビの蜂〈上〉 (集英社文庫) ナイロビの蜂〈下〉 (集英社文庫)
ナイロビの英国高等弁務官事務所に勤める外交官・ジャスティンのもとに悲報が伝わる。彼の若く美しい妻テッサが内陸部での援助活動中に何者かに惨殺されたのだ。英国本国もナイロビ警察も事件を痴情のもつれによるものとして単純に終わらせようとしていた。しかし真相を追うジャスティンは、官僚と多国籍企業とがアフリカを舞台に繰り広げる恐るべき謀略が妻を殺したことを知り、真実を突き止める為に立ち上がる。
外交官である主人公はそれなりの特権があるにせよ、妻を失ったただの一介の中年男に過ぎません。彼はヒーローでもマッチョでもないのです。真実を知る為に彼は世界中を彷徨います。ケニアからイギリスへ、イタリアへ、ドイツへ、霙降りしきるカナダのバンクーバーへ。そして彼の旅は、NGOで彼に知られずに活動していた妻の、彼女自身が陰謀を解明する為に辿った道と重なり合うのです。死んで初めて知る妻の一面、その妻の面影と、彼は道行きの旅を続けるのです。しかし真実への旅は、あまりにも深く暗い、地獄の淵のような場所へと一歩一歩脚を踏み入れていくことでもあったのでした。
この本は物凄く面白かった。英国調のウィットとシニシズムに満ちた文章は、唸りたくほどの名文です。そして描写される主人公の驚くべき自制に満ちた人物造詣の深さ。ジョンブルかく在るべしと言うかのごとくです。他の登場人物もまるで血肉を備えているかのように圧倒的な存在感を持って描写されています。まさに小説を読む愉しみが詰まった長編といえるでしょう。ああそれにしても重いラスト…。
ジョン・ル・カレはかつて冷戦時代を舞台にした国際諜報小説を書き続けてきた作家です。スパイ小説、といっても登場するのは007のようなヒーローでは在りません。登場するのはむしろ、国家と個人の狭間で魂を引き裂かれ蹂躙され続ける現代人なのです。
彼らは諜報部員として二重生活と二重思考のなかで生きながら、いつ自分は日の光の下であの普通の人々の一員として生きることができるのだろう、という狂おしいまでの夢想に打ちのめされ続けます。しかし諜報部員ではない我々もある意味個人と社会、個人と企業、個人と生活共同体などの中で引き裂かれ続けているとは言えないでしょうか。小説のなかの諜報部員たちが「決して戻ることのできない日の光の下の生活」を夢想するがごとく、我々は「果実のように充実した一個の自己」として生きられないことの孤独と虚無を、この世界と社会に感じているのではないでしょうか。諜報小説のテーマとは、まさにこの部分にあるように思えます。