異形なる群衆の仮面〜『フォリガット』(ニコラ・ド・クレシー著)

フォリガット
バンドデシネ『フォリガット』は『天空のビバンドム』『氷河期』などで知られる異才、ニコラ・ド・クレシーの処女作となる。
この『フォリガット』、個人的な事なのだが、ちょっとした因縁がある。20年ほど前、洋書店をぶらついていた時、海外コミックコーナーで、おそろしく個性的なグラフィックの大判コミックを見つけたのだ。フランス語の台詞で綴られたそれは、作者の名前も知らず、どんなストーリーなのかまるで分らなかったが、暗く怪しげなグラフィックと色彩の、その異様な迫力に圧倒され、ついつい購入してしまったのだ。実はそれがこの『フォリガット』であることを知ったのは、翻訳バンドデシネを読むようになったつい最近の事なのだが、その頃からニコラ・ド・クレシーの才能に魅せられていたのだろう。不思議な縁である。
閑話休題。この物語は、どことも知れぬ東欧らしき国を舞台に語られる。そこには陰鬱な石造りの街並みが連なり、醜く歪んだ相貌をした人々が住んでいた。荒廃した人心が巻き起こす騒乱に困り果てた市政は、カーニヴァルを開催し鬱屈した人々のガス抜きをしようと目論んだ。そのカーニヴァルの"王"として招聘されたのが高名なるカストラート、フォリガットだった。フォリガットの歌声は人々を魅了し、カーニヴァルは成功したかのように見えたが、開催後数日してフォリガットの身に異変が起こる。それは、彼の秘められた過去が引き起こしたものだった…というもの。
処女作とはいえ、『フォリガット』におけるニコラ・ド・クレシーのグラフィックの才は既に完成の域に達している。『天空のビバンドム』で見られた様々な画材・技法の活用、分厚く塗り込められたかのような重々しい色彩、悪意を込めてこねられた泥人形のようにいびつで醜い顔つきの登場人物、感情移入を一切拒んだ不可解で超現実的でストーリー。それはあたかもベルギーの近代画家、ジェームズ・アンソールの絵画に登場する群衆が血を求めて蠢いているかのような怪しさだ。
ここにはニコラ・ド・クレシーの全てが既に詰まっている。特にカーニヴァル・シーンの、延々と続く台詞の無いコマ割りの中で躍る群衆の姿は、それそれが丹念に描き分けられ、百鬼夜行とでも表現したくなるほどの不気味さと冷笑に満ちている。ある意味、重厚で結構な長さのある『天空のビバンドム』の謎めいた物語と比べるなら、まだ理解しやすい物語であるこの『フォリガット』は、価格・物語の短さなどから手に取りやすく、敷居が低いといった点で、ニコラ・ド・クレシー初心者にとっては非常に有用な入門編とはいえないだろうか。しかも絵画クオリティは『ビバンドム』と並べても何一つ遜色ないのだ。
そういった部分で、ニコラ・ド・クレシー、そしてバンドデシネに興味を持ちながら、まだ二の足を踏んでいるような方にこそお勧めしたい作品だといえるだろう。ただし物語は相当突き放した心胆寒からしめるものなのでご用心を。


フォリガット

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天空のビバンドム

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