P・K・ディックの中期の未訳長編が遂に翻訳〜『空間亀裂』

■空間亀裂 / フィリップ・K・ディック

空間亀裂 (創元SF文庫)

時間理論を応用してつくられた超高速移動機の内部に亀裂が発見された。そこからは別の時間、別の世界が覗き見られるという…。ときに西暦2080年、世界は人口爆発に苦しめられていた。避妊薬は無料となり、売春も法的に認可されている。史上初の黒人大統領候補ブリスキンは、かつて夢見られ今は放棄された惑星殖民計画の再開を宣言するが…。ディック中期の長編、本邦初訳。

ディックは生前にSF・非SF作品も含めて40作近くの長編を執筆し、その中でSF作品は殆ど翻訳されていたが、それでもいまだ未訳だったSF作品『空間亀裂』が先頃やっと翻訳・発売となった。ただし、人気の高いSF作家であるディックの作品なのにもかかわらずこれまで訳されていなかったというのは、実の所作品クオリティに難あり、とされていたからで、「作者本人が「ひどい小説」と烙印を押している」だの「ディック評伝を著したローレンス・スーチンも、10段階で2点とかなりの低評価」だのといったことが本書解説で既にして暴露されている。しかし失敗作だろうがなんだろうが、もはや逝去しておりこれからの新作など望むべくもない作家のファンとしては、どうしたって読みたいと思うし、当然出版社だってそういったニーズに応えるべく訳出したのだろう。翻訳者並びに出版社の皆さんには感謝の気持ちで一杯である。
さてそんなディックの"失敗作"である『空間亀裂』、いったいどんな具合に酷いのか、恐る恐るな反面と、たとえどんなに酷かろうがしっかり受け止めてやろうじゃないか、といったファンの愛情といった反面の両方で読み始めたのだが、これが"失敗作"だなんて噂は全くの杞憂、どこからどう切り取っても"ディック節"に満ち溢れた、実に楽しめるディック小説だったではないか。
物語の舞台は西暦2080年、人口爆発により危機的状況に至っているアメリカ。惑星植民計画は頓挫し、超過した人口を抑えるために7千万人もの住民が《凍民》とよばれるコールドスリープ処置によりいつ終わるともしれない眠りにつかされ、人口増大を押さえるため避妊と堕胎が奨励され、軌道上には合法娼館衛星が飛んでいた。そんなある日、時間理論を応用して制作された超高速移動機が故障し、その中に異世界への通路がぽっかりと顔を覗かせたのだ。折しも史上初の黒人大統領候補となったブリスキンはこの機会を利用して新たな政策を打ち出し、《凍民》たちの異世界移住計画を提唱するが、その異世界には思いもよらないものが待ち構えていた、というもの。
なにしろ冒頭から人口爆発だのコールドスリープ者だの超高速移動機だの娼館衛星だの、その娼館衛星を治める「一つの頭に二つの体」を持つシャム双生児の暗躍だの、60年代パルプSFらしいチープで怪しげな設定が並べられ、そこにディック小説らしい癖のある人物たちが次々と登場して喧々囂々の議論や対立がなされ、さらに不倫の2、3個もアクティブに描かれているという実にパワフルな人間関係の中、状況は次から次へと目まぐるしく展開し、科学的説明なんて当然全てすっとばしていきなり異世界へ突入、そこは実はXXだった!とかそこの住人はXXだった!とかこれもやはり60年代パルプSFらしいチープかつ怪しげな真相が判明したかと思うと、お次は全世界の危機!とか恐るべき未来!とかで読者を煽り、相当ドタバタしながらも大団円を迎える、といった内容で、書き飛ばしたのであろう雑駁さとスピード感が同居しつつも、お話全体を見渡すとディックらしいグロテスクな異様さに満ちた、決して凡庸ではない作品として成り立っているのだ。
この物語を独特なものにしているのは善悪に関わらず登場人物たちの実に能動的な行動力であり、発生した問題には体を張って立ち向かい、常に貪欲に前向きに生きようとする、そのアグレッシブな生き方にあるのではないかと思う。そして異世界発見とその移住を巡る対立の根源には、関係者それぞれのせっぱつまった現実への対処と、あくまで既得権益を守ろうとする者との諍いという、実に生々しい理由が存在しており、それがそれぞれの思惑の中でダイナミックに物語を展開してゆくのだ。こういった人々の生々しい在り様を、SFという文学の中、しかも原稿料目当ての書き飛ばし小説でさえ描いてしまうという所に、ディックの異能の中の異能であった部分が伺えるような気がしてならない。そして「氷駆動エンジン」だの「木製原子爆弾」だの、中学生程度の科学知識を持っていれば思いついても書かないであろうアイディアを、物怖じせずあっけらかんと書いてしまう部分にもディックSFらしい突き抜けた面白さを感じた。
こうしたディックの愛すべき所が垣間見えるといった部分で、実にディックらしいSF小説として堪能できるし、そもそもディックのB級な作品は小説作品の完成度云々というよりそのぶっ飛ばし方と異様さが楽しいものであるといった意味で、実に及第点なディック作品として読めると思う。ちょっと二の足踏んでいるディック・ファンの方は読んでみるといいだろう。

空間亀裂 (創元SF文庫)

空間亀裂 (創元SF文庫)