生きる2010 / 根本敬

生きる2010

生きる2010

この間侍功夫さんに出ているのを教えてもらった根本敬・久々の新刊漫画その名も『生きる2010』、そう、あの『生きる』の2010年バージョン、20年ぶりの書き下ろし作品集なのである。それだけではなく今は亡き平凡パンチ誌で連載され単行本未収録のまま忘れ去られていた(ってか忘れんなよ…)平凡パンチ80年代版『生きる』も復活だ!
この『生きる』、"村田藤吉寡黙日記"と副題が付けられているように、地味でこ汚くてビンボ臭くて無能で小心者で善良意外に何も取り柄のないおっさん村田藤吉が、小心者故に社会とかクソジジイとかから身の毛もよだつようなおぞましい虐待を受け続け、それでも寡黙に生きてゆく(というか結構死ぬ。不具とか人体改造とかもされる)という涙なしにはウンコも我慢することができない連作短編集なのである。
それらはヒューマニズムを嗤い民主主義を冷笑し、ただただ残酷な運命だけを繰り返す"生きる"という事への徹底的なニヒリズムがあるんじゃねえのかなあフングフング(鼻クソをほじりながら)。モダニズムポストモダンもねえ!いつになったって世の中結局業突く張りのカッペばかりが支配する前近代的な村社会でしかねーじゃねーか!というのがこの漫画の趣旨である、と適当に思いついた事を書いておく。カーッペ(カッペにかけたシャレとして痰を切ってみる)。
なによりも巻頭のオールカラー20ページ『ズボン塚の由来』が素晴らしい!一本のズボンを共有し、毎日かわりばんこに履いて仕事に行くDOKATAのオッサン二人が主人公…というのが既にワケが分からない。そんなある日、そのうちの一人のオッサンがUFOを目撃し、なぜだかそれからおっさんの体が光り始めるのである。そして光るおっさんは見世物小屋で見世物になるが…という涙なしにはセンズリもコケないホモソーシャルな珍作短編なのだ。
ズボンを共有するおっさん。UFO。光る体。これらにどういう意味が、暗喩が、隠喩が込められているか考えても無駄である。意味なんか求めたって駄目なのである。かつて根本敬が『映像夜間中学講義録 イエスタディ・ネヴァー・ノウズ 』(拙レビューはこちら)で言っていたように「この世に存在するもの総てに確固たる『理由』はあるけど、しかし、『意味』は不確定である」からなのである。
そしてこの『ズボン塚の由来』、根本漫画なのにもかかわらず読後感が爽やかなのだ。何を持って爽やかとするか、というのはいろいろあるだろうが、言ってみればずっと挟まっていた歯糞がやっと取れた時のような爽やかさなのである。20年を経て根本の中の『生きる』理由は何か変わったのだろうか。いや、それはより純化したものになったのではないか。クサヤの漬け汁が年代を経てよりソリッドでグレービーなオイニーになってゆくように。フォーエバーヤング!
映像夜間中学講義録 イエスタディ・ネヴァー・ノウズ(DVD付)

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生きる―村田藤吉寡黙日記

生きる―村田藤吉寡黙日記