幽談 / 京極夏彦

幽談 (幽BOOKS)

幽談 (幽BOOKS)

以前京極は江戸時代の奉行・根岸鎮衛がまとめた奇談集「耳袋」を現代語訳した「旧怪談―耳袋より」という本を出していたが、この「幽談」ではその「耳袋」のテイストを継承した、どことなく朧で掴み所のない8作の怪談を書き上げている。ここで読むことの出来る”幽談”は、あからさまな恐怖や怪奇へと結びつくショッキングな物語では無く、「幽=かすか」であり、あらゆるものの境界がはっきりしない、そんな不安で心元のない薄暗さに満ちた世界ばかりだ。
その境界線の無い朧さは、例えば意識というものであったり、思考する主体ということであったり、現象世界であったり、生きることそのものであったりする。我々が常識のように”ある”と思っているものは、本当に"ある"のか?何を根拠にしてそれは”ある”などとされているのか?いや、”ある””ない”の二元論的な見方で割り切れるほど、存在と非存在の境界は確固としているのか?そしてまた、存在と非存在を認識する主体の側の、その認識のあり方自体が、確固としたものだと言い切れるのか?そもそもそれは、確固としていなければならないものなのか?…京極小説は、境界線の無い薄ぼんやりした世界から、そんなことを問いかけているような気がする。
簡単に物語を紹介してみよう。
冒頭「手首を拾う」はよく出来た奇談といったところ。まずは手始めか。
「ともだち」もありふれた幽霊談のように読めるが、京極の手にかかるとぼんやりした日常の描写がどこか不安げにさせる。
「下の人」はちょっと趣向を変えてOLのベタな日常と会話に奇妙な非現実が割り込むといった物語がユーモラスに語られる。
「成人」。ここからが本領発揮か。巷に溢れるいわゆる”実話怪談”を題材にしながら、そこからさらに一捻り二捻り入り、そして多数の人物の視点を盛り込むことによって、じわじわと不気味さを盛り上げている。これは巧い、と感じた。
「逃げよう」も最初はケリー・リンクのような子供の”見取り遊び”の物語かな、と思わせておいて、後半、世界がゆっくりと歪み始めるさまが怖い。
「十万年」はタイトルの奇妙さ、左右を逆に認識する少年と霊感少女という登場人物から、いyたいどんな話になるかと思いきや、なんと!淡々とではあるが一つのラブストーリーが語られるのだ。逆にこの淡々とした具合が京極らしいのかも。ラストもいい。
「知らないこと」は奇行を繰り返す隣人を通して、ゆっくりと認識世界が崩れて行く様子を描く。いがらしみきおの傑作長編ホラーマンガ「SINK」を思い出させる1品。
ラスト「こわいもの」は、「恐怖とは何か?」を京極なりに自問したような作品。京極にとって恐怖、即ち、作品の創造の原点となるものは何か、を知る上で実に興味深い作品となった。
旧(ふるい)怪談―耳袋より (幽ブックス)

旧(ふるい)怪談―耳袋より (幽ブックス)

フモヒモノ

昨日はオレの悪辣かつ淫靡なキャラに反して、潮風を浴び日光に照らされてきたせいか、今日はなんだか消耗気味である。なんだかアジの干物になったような気分である。しかしアジの干物は美味しいが、フモの干物はあまり美味しく無いような気がする。脂が乗っている、というよりは脂だらけ。しかも苦いような酸っぱいような嫌な雑味があるばかりか、汐の香りというよりは、汗臭い臭いがするのだ。万人にはお薦めできない一品である。
あああああ仕事したくねええええええ!