あなたもどうぞこの機会に幸運の印鑑を!

随分前の事だがな。オレの部屋に「区役所のほうから来ました」などとやってきた人間が居たのだよ。いったい区役所が何の用だろうと思いつつドアを開けると入ってきたのは30代前半ぐらいの男女二人。「区役所に届けられている印鑑証明は実印がうんたらかんたら」などと言っているので何を言っているんだこいつら?と聞いているとどうやら区役所を騙った印鑑売りらしい。おまけに「区役所の方向から歩いてきました(だから”区役所から来た”っていうのは嘘じゃないからね!)。」などと姑息な予防線まで張っているではないか。ああ、これが話に聴いた悪徳商法ってやつかあ、とは思ったが、なんとなく面白いので話を聞いてる振りをしてみる。
どうやら連中の売りたいのは水牛の角を使ったという触れ込みの高級印鑑らしい。「お客様!印鑑に使うにも角には”目”というものが御座います。例えば今お出しする印鑑ではどれが一番優れた”目”を持っていると思われますか?」などと言いながら三つの印鑑を取り出す印鑑屋。見ると磨き上げられた綺麗な印鑑一つと、小汚ねえ貧相な色の印鑑が二つ。ミエミエじゃねーかよ。「う〜ん、これですかね!」などと綺麗な印鑑を指差して乗ってあげるオレ。「おお!よく判りましたね!」などとメッチャわざとらしく驚いてみせる印鑑屋男女。この辺でオレ、吹き出しそうなのを懸命に堪えている。
そのうち印相と幸運について屁の様な戯言を語り出し始めたので、オレはああ今日はなんと楽しい日なんだろうと愉快極まりなくなり、顔だけは真剣そのもので訊いてあげていた。「このようにご利益の高い幸運をもたらす印鑑なので御座います。これを現在格安価格でご提供しているのですが。」といよいよ売り込みを始めた印鑑屋。それでオレは話を終わらそうとオレ自身の呪われた生い立ちを語ってあげた。
「実は僕の家系というのは代々脳がスポンジになる奇病に罹る家系でして…。ええ、父は既に脳ミソがスカスカになり「ワシは神武天皇の生まれ変わりじゃ」と言いつつ糞小便撒き散らし壮絶な最期を遂げ、母は小人の大名行列がピンクの象と綱引きをしていると喚きながら病棟に10年も隔離されたまま…。そしてついこの間弟がズボンを下ろして「はい。タケコプター。」と言いながら町内を走り回り、妹が「お魚咥えて陽気なサザエさん!」と歌いながら車の前に飛び出し病院に担ぎ込まれたばかりなんです…。この僕もいつ脳ミソがスポンジになり、自分の精神が崩壊してしまうか判らないと言う不安な毎日を送っています…。こんな僕に幸福?本当に幸福なんてやってくるのでしょうか?そもそもこんな家系に生まれた僕が幸福になるなんて有り得るんでしょうか?幸福ってなんなんでしょう?いいんです、僕はもう自分が幸福になることなぞ諦めています。今はただ一人静かに暮らしたい…ただそれだけなんです…。」
勿論全部嘘だがな!
それを聞いた印鑑屋男女はさすがに顔色を変えて気まずそうにしていた。信じたかどうか判らないし、案外おちょくられている事に気付いたかもしれないが、もはやこいつに何を言ってもどうしようもない、ということだけは判ったみたいだ。という訳で退散することにした印鑑屋男女ではあったが、最後に「お大事にしてくださいね」などと人間らしいことを言っていたのには再び笑いそうになったけどな。だいたい「区役所のほうから来ました」などと駄法螺を抜かす連中をまともに扱うつもりなど無いからな!
という訳で悪徳印鑑屋を追い払ったオレではあるが、あれ以来印相とかいう話に深い嫌悪感を感じるようになり、今でもわざと縁の欠けたボロボロの印鑑を使っている。オレはかなり天邪鬼な人間なのらしい。(…ムキにならないで新しいの買えよオレ…。)しかし印相のメッチャいい印鑑を持った人相のメッチャ悪い奴とかいたら笑うな!