橋本治・岡田嘉夫の歌舞伎絵巻 仮名手本忠臣蔵

仮名手本忠臣蔵 (橋本治・岡田嘉夫の歌舞伎絵巻 (1))

仮名手本忠臣蔵 (橋本治・岡田嘉夫の歌舞伎絵巻 (1))

まずはおさらいから。
年の暮れになるとTVドラマや舞台などがあちこちで上演される御馴染みの『忠臣蔵』ですが、現実に起こった元禄赤穂事件を題材にしているとはいえ、歌舞伎などの演目である『仮名手本忠臣蔵』はあくまでそれを脚色したものであり、大石内蔵助浅野内匠頭は実際は登場せず、大星由良之助、塩冶判官高貞と名前が変えてあります。そして時代設定も現実の元禄赤穂事件よりも昔、太平記の時代になっており、現実には無かったフィクションのエピソードも挿話されています。つまり基本的には『忠臣蔵』はドキュメンタリーではないということです。ラストの四十七士切腹のくだりにしても、現実には現代で言う裁判のような協議がなされ、それにより決定した切腹であり、覚悟はあったでしょうが決して最初から望んだ死ということではないようです。ちなみに”忠臣蔵”とは蔵いっぱいの沢山の忠臣、といった意味なんだそうです。

例によって知った事を書いてますが、これもこの絵本を読んでから調べた事で、実は国民的な物語であるこの『忠臣蔵』、オレはまともにドラマなりなんなりを見たことがありません。こういった時代物のドラマってあんまり興味が無くって…。そしてまた、こうして改めて読んでも封建時代の”忠義心”なるものにあまり関心が抱けませんでした。これが上演されていた江戸時代ならいざ知らず、現代にこれを観て、いったい何を学ぶというのでしょう?

寧ろ興味深かったのは現実にあった討ち入りに対する当時の幕閣の裁量のあり方です。江戸時代に敵討制度は確かにあり、許可さえあれば決闘による殺人は行う事ができましたが、これにもそれなりに決まり事があり、この元禄赤穂事件では、徒党を組んで不意打ちを行った暴徒なのか、主君に忠義を尽くした英雄なのか、というところで幕閣内でも意見が分かれたのだそうです。徒党を組んでの討ち入りは基本的には死罪にあたる事だったからです。一時は皇族から恩赦を下して貰えるよう要請もしたのだそうですが、やはり結果的には”名誉の”切腹ということになってしまいます。

しかし法親王は言った。「亡君の意思を継いで主が仇を討とうというのは比類なき忠義のことだとは思う。しかしもしこの者どもを助命して晩年に堕落する者がでたらどうであろうか?おそらく今回の義挙にまで傷が入ることになるであろう。だが、今、死を与えれば、後世までこの話は語り継がれていくことになるだろう。時には死を与える事も情けとなる。」と。もっともなことだと考えた将軍綱吉は赤穂浪士切腹を命じることに決意した。
■Wikipedia 元禄赤穂事件

基本的に自分は、これら封建制度化の日本の武家社会や武士道について、そして敵討や切腹について、意見があるわけではありません。それはそういう時代であり、そういう社会であったと言うだけです。武家社会というのは”家”ありきであり、”家”そのものがアイデンティティである以上、それは個人の思惑も生き死にさえも超越した制度だった、としか言いようが無いのです。ただ近代において、これを安易に軍国主義と結びつけ、あたかも個人と国家の正しいありようのように喧伝されたとき、太平洋戦争という悲劇が起こってしまったのでしょう。それでは江戸時代の封建主義における”人間”と現在の我々は何が違うのか。それは開国後に西洋から導入された”個人主義”という概念です。我々は一個の人間であると言う個人主義の概念は、全体主義から遠い場所にあります。それに目覚めてしまった存在であるからこそ”国家”や”全体”が中心であるとされる観念と抗うのです。

絵的にはこれまで紹介した岡田嘉夫氏の筆になるもので、例によって美しい描画を見せますが、江戸時代に『忠臣蔵』を描いた歌川国芳などの浮世絵と比べるとどうも淡白で迫力不足は否めません。逆に『忠臣蔵』を編集した浮世絵画集があれば観たくなったほどです。

最後に切腹について少し調べてみました。時代劇によくあるような”白布を敷いた畳の上に白装束、奉書紙に巻いた拵え無しの刀を用いての切腹”というのは実際には存在せず、”着る物や敷く物は浅黄色に整えられた”ということです。また、近世においては切腹も形式的なものとなり、短刀の替わりに扇子を置き、これに手をかけたときに介錯人が首を切り落としたのだそうです。この赤穂浪士切腹においても、”比較的身分が高かった大石内蔵助ら数人以外は、扇子や木刀を使用した”とのことです。(■参考:Wikipedia 切腹