ひとりっ子 / グレッグ・イーガン (その2)

ひとりっ子 (ハヤカワ文庫SF)

ひとりっ子 (ハヤカワ文庫SF)

■《ひとりっ子》の構造
タイトル作である《ひとりっ子》は大雑把に言うならば所謂”ピノキオ”テーマということができるだろうか。即ち”アンドロイドに心はあるのか?”ということだ。ただこの物語はそれのみに留まらない複雑に交錯したテーマを孕んでおり、それだけに作品集中最も味わいの深い物語になっていることは確かだ。
少しこの物語の持つテーマを整理してみよう。
・最初に挙げた”ピノキオ”テーマ。アンドロイドの人間性について。
量子コンピュータによる多次元宇宙解釈。一般の読者にはこの記述が最も難解で取っ付き難いと思われる。
・さらに量子コンピュータを思考回路として持つアンドロイドの生きる決定論的宇宙の存在。
・もっと人間的な、親と子の愛情、関係の在り方について。親は子に何を託すべきか?子を持つ、というのはどういうことか?について描かれる。
これらについてちょっとづつ解題してみよう。

■ピノキオ・テーマ
ピノキオテーマについて。これは鉄腕アトムから石ノ森章太郎のヒーロー物、P・K・ディックの描く”シュミラクラ”ないし”レプリカント”、さらにはスピルバーグの映画《A.I.》に至るまで、SFではお馴染のテーマだろう。これらの物語は先験的にアンドロイドに心は”在る”ものとして描かれるけれど、現実的なテクノロジーから考えれば、人間と全く同じように思考するだけではなく、さらには個性と感情、即ちアイデンティティを備えた”自我”というものを創り得るのか?ということだろう。イーガンはここで量子コンピュータを持ち出すことで物語的に解決しているが、しかしそもそも”心”とはなんなのだろうか。もしもこれを数値的に解析し如何様にも再現可能なのならば、”人間と同じ自我”を創り出すことなどよりも、我々の持つ”人間的であるが故の問題”が全て数値的な誤差の修正によってテクノロジカルに解決できることになってしまうのはないか。脳の持つ機能のマッピングを100%遣り遂げる事が可能だとしても、それは”魂の地図”では決して有り得ないのではないか。いや、オレ自身現在のこの辺の理論について明るいわけでは決してないので、感傷的で”ナイーブな”物の言い方になっているかもしれない。ただ、これはイーガンの物語を否定しているわけではなく、最新テクノロジーによって肉薄してきた”魂の複製”の可否を、フィクションの上だとはいえこうして見せられると、なにかいろんな意味で考えさせられたのだ。

量子コンピュータと平行宇宙
量子コンピュータによる多次元宇宙解釈。これがなにしろ手強い。原理を別とするなら量子コンピュータは単純に言えば古典的なコンピュータの持つ”0”と”1”の2進法による計算方法を遥かに越えた超並列的な計算を行うことの出来るコンピュータ、つまりは古典的なコンピュータが数億台でもって行わなければ実行できない計算を一度の計算でもって行われるコンピュータであると言えばいいのだろうか。これは現実に開発中のものであり、決して絵空事のものではない。で、それがどうして多次元宇宙という考えが関わってくるのかというと量子力学の話をしなければならないだが、量子的系の状態を例えた「シュレディンガーの猫」のお話では”猫は死んでもいるし生きてもいる”という確率論的な”観測のパラドックス”を生むが(コペンハーゲン派)、この考えに対し、

結局、宇宙を「ひとつの宇宙とその確率的ゆらぎ」として見るのではなく、確率的な「それぞれの場合」をすべて実在化して、それぞれ「宇宙」とすることで、ヒュー・エヴェレットは「多元宇宙」を作り上げる。
平行宇宙論 ヒュー・エヴェレットの量子力学解釈(1957)

という解釈(エヴェレット解釈)を導入することで不確定で確立論的な(ひとつの)宇宙を決定論的な宇宙の無限次元のうちの一つとして考えようとしたわけである。これが平行宇宙論である。そして量子コンピュータはその決定の際に無数に分岐する平行宇宙を生み出しているということなのだろう。

次回に続きます。