ひとりっ子 / グレッグ・イーガン (その1)

ひとりっ子 (ハヤカワ文庫SF)

ひとりっ子 (ハヤカワ文庫SF)

グレッグ・イーガン早川書房からの第三短編集。イーガンSFを誰でも楽しめるエンターテイメント作品として推す事は難しいが、彼のSF作品は現代SF小説のなかでも際立ってスリリングな世界を描いているものだということは保証できる。イーガンは最新テクノロジーと最新数学・物理学理論を駆使したハードSF作家のように思われがちだが、彼の小説が”理系の皮を被った文系”と言われるように、作者が真に目を向けているのは”人間存在とは何か”というところにあるとオレは思う。一見難解な科学理論や目くるめく様な未来テクノロジーは、それを扱いそしてそれに翻弄される人間達の本質を浮き上がらせる為の方便なのである。

例えば冒頭の《行動原理》《真心》では脳内にインプラントされたナノマシンによる意識改変と人間性改造が描かれるが、物語の根幹となるテーマは悔恨や逡巡、愛の不確定性や愛の不在への恐怖なのだ。人は誰しも思い惑い不安に心を奪われ、自己存在がアンバランスになる経験などあるだろう。そのとき何らかの行為や酒や薬物へ依存することで心のバランスを保とうとすることなど現実でも在り得ることだ。しかしイーガンはそこでテクノロジーを外挿する。登場人物たちは皆、未来テクノロジーが生んだハードウェアという異質な”外部”を肉体に取り込むことでしか自らを見出せない。そしてそれは自己疎外以外の何者でもないのだと思う。このテクノロジーと人間性の対比が悲しみと哀れさをなお一層顕わにするのだ。

《ルミナス》の冒頭は『MJ』として映画化されたギブソン作品《運び屋ジョニー》を思わせる非合法データ・クーリエと武装化された巨大コングロマリットとの戦いを髣髴させてサイバーパンクファンをにんまりさせる。作中、イーガンの長編作品タイトルと同じ《万物理論》という言葉が使われるが直接は関係ないようだ。物語は”数学スリラー”とでも呼ぶようなイーガンお得意の架空理論を駆使した作品だが、これがちょっと難解。要するに「この宇宙には我々の知っている数学の解法とは全く違う解を導き出すもう一つの数学的宇宙が存在する」ということなのだろうか。まあイーガン一流の大法螺なので突き詰めて考えることは無いが、凄いのはそのクライマックスだ。《以下ネタバレ》情景的には世界最速のスーパーコンピューターの前で主人公らが議論しているだけなのだが、そのスーパーコンピューターは計算のみによって一つの宇宙を消滅させる作業をしているのである。まさにイーガンらしい大風呂敷の生きる一作!

《決断者》も少し難解。主人公が装着した”アイ・パッド”なるハードウェアが見せる異様な情景が物語の中心だが、これは「意識の流れが生む蓋然性を抽象化されたヴィジョンとして視覚できる装置」という見方で正しいだろうか。そもそもそんなものが何の役に立つのかオレの想像力では思いつかないが、「決定されない全ての情景を視覚体験する」というのは確かに地獄のようなものであろう。これはちょっとした実験作かな。

《ふたりの距離》は脳髄が既にハードウェアと置換された未来で、”あなたと私の距離を出来るだけ埋めたい”という男女がテクノロジーによって実際に距離を埋めて行ってしまう、という皮肉に満ちた作品。恋人達は肉体の交換から始まり、クローンを使った同人物として過ごし、そして精神の融合まで手を染めようとする。体験を共有しなければ気が済まない、といった恋愛感情に対するグロテスクなジョークといったところだろう。

《オラクル》人工知能研究の第一人者でありコンピュータ工学の父と呼ばれたアラン・チューリングと、『ナルニア国ものがたり』の作者であると同時に神学者でもあったC・S・ルイスが出会っていたら、という歴史の”if”を扱った作品。彼等は歴史的に同年代ではあったが、実際に出会うことは無かったであろう。平行宇宙間の跳躍や歴史改変、アンドロイドなどSF的アイディアが盛り込まれ、科学と宗教の拮抗が描かれるこの作品はしかし、その本質的なテーマとするところは”魂とは何か”ということなのではないだろうか。将来的には自ら意思決定する人工知能の開発は有り得るだろう。そしてそれが人と変わりない存在になることも。これを禁忌とする神学は不合理で時代遅れのものなのかもしれない。しかしその科学が魂の存在を証明できないのなら、我々の移ろいやすい心の寄る辺とするものはいったいどこにあるというのだろうか。それはイーガンさえこの作品の中で結論を出していない。若干消化不良気味の部分もあるがイーガンには珍しい歴史ものであり、意欲作と見るべきだろう。なお冒頭のチューリングが暴力的な監禁を受けている描写は、彼が当時違法であったゲイだった為に当局によって成されたものということなのだろう。別の平行宇宙での出来事ということで実際には監禁の事実は無いが、しかし現実では保護観察処分となりホルモン注射を強要され、その後彼は自殺している。

タイトル作《ひとりっ子》については多少長くなりそうなので次回に。