V・フォー・ヴェンデッタ (監督 ジェームズ・マクティーグ 2006年 アメリカ作品)

『V・フォー・ヴェンデッタ』である。タイトルからなんとなく『バンデットQ』とか『ゼニヤッタ・モンダッタ』とか連想したが、勿論何も関係ないのである。それにしてもなんだかヒットしなさそうなタイトルだなあ…。そもそも公開前のトレイラーで”V”の格好を見て、「これは史劇なのか?怪傑ゾロみたいな映画なのか?」と思ったぐらいプロダクションデザインにあまりにもな古風さを感じ、舞台が近未来らしいと知った時には「だめだこりゃ」と思ったぐらいである。それでも観に行ったのは取り合えずウォシャウスキー兄弟がかんでいるということで、何とかなっているだろう、と思ったからである。あとツンツルテンのナタリー・ポートマンも見たかったし。


で、感想はといえば「面白かった」のだが、やはり何で今の時代にこの映画なのか?が腑に落ちなくて、ああだこうだと書きながら考えてみたいと思う。


ええと、物語は第3次世界大戦後の恐怖政治と独裁政権下のイギリスが舞台で、かつて政府になんかされたらしい”V”の復讐と革命の有様が描かれる、というもの。結局引っ掛かったのは今何故”革命”の物語が必要かということなのである。


原作はアラン・ムーア(映画『リーグ・オブ・レジェンド』『フロム・ヘル』の原作コミックを手掛ける)とデイビッド・ロイド(映画『コンスタンティン』の原作コミック『Hellblazer』を手掛ける)によるコミックなんだけれども、これの初出が1981年、完結が88年ということらしい。全体主義国家への反逆ということで捉えるならば、ベルリンの壁崩壊が1989年、ソ連のモスクワクーデターが1991年。そして原作自体は実際は80年代のサッチャー政権下の超保守体制への批判として描かれたものなのらしい。ということで、当時ならば東西ヨーロッパに緊張がまだ存在していた時代における原作の主題はまだ生きていたのだろうと思う。


ただ、”サッチャー政権下の超保守体制”とは言っても、多分にドメスティックなお話の様な気がして、日本人にはちと判り辛い様な気がする。現在の日本の小泉政権による政策とサッチャリズムとの共通項、とかいう記事を読んでもピンとこない。ううむ、単なる不勉強なのかもしれない。ここにイギリスの”ガイ・フォークス・デイ”なるものが下地として物語があり、それはマザー・グースの一節にも使われ…などと言われても英国通というわけでもないのでなおさら「なにそれ?」となってしまう。


だからそういった背景のある物語として革命へのパッションが強く描かれるのだけれども、そのパッションへの共感がどうにも得難いものとして感じられてしまうのだ。その辺の歯痒さがどうしても映画を見ている間中にあり、どうにかこれを”現代的”に自分の中で翻訳する作業が必要となってしまう。例えば製作者側はこれらを911以降のアメリカ・イギリスの対テロ戦争になぞらえる事でテーマとしては同時代的でありうると踏んでいるのかもしれないが、ううん、でもやっぱこれ、テロリストの側の論理を描いた物語でしょ?変革のためにはテロは必要なことなのか?というムズカシイ問いかけの映画ではなくて、復讐と反逆の甘き香りに酔い、革命の高揚を味わうというという映画だと思うのよ。だからその辺エンターテインメントに徹しきってもよかったんじゃないかなあ。


そういった意味でこの物語は主人公”V”の復讐の物語であり、そして”V”は何故復讐しなければならないのか?という謎解きの物語として単純化して観たほうが楽しめるかも、と。アクションシーンはよく出来ていたしな。あとN・ポートマン演じるイヴィーの拘束と拷問の長いシークエンスは必要じゃないかもなあ、とか、『巌窟王』とか『オペラ座の怪人』をモチーフにしたとかいう部分もやっぱ引用として古臭くないかなあ、とか、あれこれ主題盛り込もうとしてしまったかなあ、とかいろいろ考えてしまったオレであった。ただ、前述の理由でイギリス好きの人には結構イケル物語ではないかとも思いました。