『僕と怪獣と屋上で』のコメントへの返信で

 去年の夏に書いた『僕と怪獣と屋上で』というエントリに、ついこの間すいかさんという方からコメントが付き、オレが10代の頃過ごしていた町、稚内の最近の実情を知って少々驚いた。すいかさんも稚内在住だったのだという。 今回のブログはその時のコメント欄のやりとりを引用しておく。

(すいかさんのコメント)

すいか

私も稚内出身です。

私が生まれ育ったのは1990~2010年ころで、このころの稚内は人口も減っていき、ロシアとの取引で儲けることもできなくなった寂びれた町でありました。

港町に止まっている動かない飾りだけの漁船や、吹雪に耐える錆びたスナックやキャバクラの看板、アーケード街の殺伐とした静けさ、加工場から漂う魚の内臓のにおい、そしてそんなことお構いなしに咲き誇るハマナスたち。それが私の稚内、私の故郷でした。

ですがどうやら稚内の土地自体(港か中央のあたり)を役所が売りに出したらしく、そしてその土地を中国人が買ったという話を聞きました。

おそらくこのようなことがどんどん増えていくと思います。 私の大好きな寂れた稚内も、あと10年もすればきっと豪勢な中華街になるのかもしれません。

私の知っている稚内を塗りつぶして。

時の流れは不可逆、町の流れも然りだと思います。

仕方のないことではありますが、(まぁどんな形であれ町が栄えるのはいいことではあります)自分の思い出、自分の起源、自分の心の一部が消え去ってしまうのは、哀しいというか、虚しいものですよね。

(すいかさんに対するオレのコメント)

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こんにちは、コメントありがとうございます。ところですいかさんって以前よくコメント下さったすいかさんと同じ方でしょうか?違っていたらごめんなさい。

稚内に最後に帰ったのはもう5年も前、母の葬儀の時でした。あの時以来自分はあの地に帰ってはいないし、また、多分もう帰る事はないのではないかと思っています。そもそも、帰る場所なのか、という気さえしています。

18の時に上京して以来、東京暮らしも既に40年近くなり、ここでの生活のほうが、稚内にいた時よりも全然長くなってしまいました。あの地には、思い出こそ多いものの、それは思い出でしかなく、自分の今の現実や、これからの未来について関わるものが、殆どと言って無いからです。確かに、弟や妹や、幾人かの親戚を北海道に残してきてはいますが、ただ彼らは彼らの人生を歩んでいるということぐらいにしか思っていません。

とはいえ、10代の、まあまあ多感であったであろう時期に過ごした故郷の記憶はやはり忘れ難いことも確かで、ただしそれは、懐かしいとか愛おしいとか言うものとはまた別の、決して消えない傷跡のようなものなんです。それは善きにつけ悪しきにつけ、今はもうただ「そうだった」ということでしかないように思えます。

稚内のここ最近の実情はすいかさんのコメントで初めて知り、少々驚きました。しかし、既に寂れていた町がさらに寂れ、そこに外国人が流入してきている、というのは、逆に外国人の流入がなければ経済も立ちいかないという事でもあるのでしょう。これは稚内だけの事ではなく、北海道の他の町や、あるいは本州のどこかの町でも起こっていることなのでしょう。つまりは、日本という国がそういった国になりつつあるということなのでしょう。

コメントを読んでから稚内に住む弟に確認したら、以前は確かに中国人も多かったのですが、現在はベトナム人研修生がそれを上まりつつあるのだそうです。しかし、中国人が町に土地を買い、それが中華街になったら、それはそれで面白いかもな、と無責任に思ってしまいました。

なにしろ稚内を離れてから40年近く経つものですから、その間にも、記憶にあった場所などはどんどんと消えてしまい、自分にとっては、もう殆ど残っていない程なのですよ。ただ自然の光景だけは、いつもまでも変わらず残る筈です。だから自分には今は、山や海や空の、冷たくくすんだ色だけが思い出です。

 (以上引用終わり)

外国人の流入についての問題は一言で片付けられないものがある。排外主義に堕すること無く前向きに受け入れるべきなのだろうと思うし、これが時代の趨勢なのだと言わざるを得ない部分もあるのだが、実際にその地に住む現地日本人の感情は容易く推し量ることは出来ない。人は往々にして理屈ではなく感情で動くものだからだ。どちらにしても今後日本は海外の様な多民族国家となっていくのだろう。

ただ、「稚内」ということに限定するならば、40年も前にその地を離れた者がどうこう意見を述べる筋合いは無いように思う。既に捨ててしまった故郷の変わりようにあれこれ言うのは、既に行く事の無くなった映画館や書店の閉店に思い出交じりで「悲しいです」などとコメントするような、何の役にも立たない感傷に過ぎないと思えるからだ。

変わるのなら変わればいい。抗ってどうなるものでもないのなら、その変わりようを受け入れるしかない。そういうことなのではないのかな。

 

 

全長1マイルに渡る死せる竜の物語/『タボリンの鱗』

■タボリンの鱗/ルーシャス・シェパード

タボリンの鱗 竜のグリオールシリーズ短篇集 (竹書房文庫) 

数千年前に魔法使いとの戦いに敗れた巨竜グリオール。彼の全長1マイルにおよぶ巨体は、草木と土におおわれ川が流れ、その上には村までもができていた。周囲に住むひとびとは、時が経ち観光地化した彼の恩恵を受けているが、その一方で巨竜の邪悪な霊気に操られているとも言われている―。グリオールの鱗を触っていた男と娼婦がタイムスリップする表題作、死した巨竜の頭蓋骨がひとびとを翻弄し運命を狂わせてゆく傑作奇想譚「スカル」の初邦訳2篇を収録。

「数千年前魔法使いとの戦いに敗れ仮死状態のまま原野に横たわる全長1マイルの巨竜グリオールがその邪悪な思念により人々の運命を狂わせてゆく物語」、ダークファンタジー短編集【竜のグリオール】シリーズ第2弾である。第1弾『竜のグリオールに絵を描いた男』はまさに傑作であった。妄執と強迫観念に彩られた破滅的な物語を描く筆致は非常に文学的であると同時に強熱的であり、どこまでも禍々しい色彩を放っていた。

この第2弾『タボリンの鱗』では表題作と長編に近い分量の中編『スカル』の2編が収められている。短編『タボリンの鱗』ではグリオールの不可思議な意志により謎の地にタイムスリップさせられた男女の異様な体験を描く。二人はこの地で拾った少女と「石器時代の聖家族」の如き生活を営むことになるが、とはいえそれは暴力と淫蕩の気配に満ちたものであり、グリオールの目的は結局不明のままだ。この異様な状況とクライマックスの凄まじいカタストロフには引き込まれるものがあるが、意味と理由の不明瞭さでどこか納得し難い物語でもあった。

続く『スカル』ではなんと現代の架空の南米国家が舞台となる。主人公はやさぐれた流れ者の男とシャーマニックな謎の美少女。少女は死したグリオールの巨大な頭蓋骨に集う人々のカルト的な頂点に立つが、それを軍事政権が暴虐的に利用しようとするのだ。そしてそこに1人の謎の男が登場する。この作品では南米の混乱と貧困、暴力と狂気をグリオールの邪悪な計画に仮託して描くことが主眼のようにも思えるが、実際延々と描かれるのは男と少女との爛れた肉欲の行方であり、男のシニカルで斜に構えた人生の果てにある虚無なのだ。

そして長々と続くこれらの描写が面白いかというとそうでもなく、いったいどこに結末を見出したいのかはっきりしない冗漫さを感じてしまった。とはいえ男の抱えるルサンチマンの様子はどこか作者の心情吐露のようにも思え、作者独特の熱に浮かされたような描写からは、この物語を激情に任せたまま書き続けたものではないのかと勘繰りさえもできるのだ。そもそも魔法的な存在であるグリオールと苛烈な中南米の現実とは水と油の様に感じ、意味不明な長さと併せてどうにも煮え切らない読後感だった。

前作からの期待に反し今一つな感想となったが、【竜のグリオール】シリーズにはあと一篇『Beautiful Blood』なる作品があり、そしてこれは長編作品となる。1作目『竜のグリオールに絵を描いた男』と同時期の物語となり、グリオールの血の特性に魅了された野心的な若い医学生リチャード・ロザッチャーを主人公とし、1作目にも登場した絵師メリック・キャタネイも登場するという。とりあえず訳出を期待して待ちたいと思う。 

タボリンの鱗 竜のグリオールシリーズ短篇集 (竹書房文庫)
 
竜のグリオールに絵を描いた男 (竹書房文庫)

竜のグリオールに絵を描いた男 (竹書房文庫)

 

メロメロ素敵の花束/映画『ダウントン・アビー』

ダウントン・アビー (監督:マイケル・エンゲラー 2019年イギリス・アメリカ映画)

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■20世紀初頭の大英帝国貴族とその使用人たちを描くドラマ

NetflixやHuluなどで様々な海外ドラマを楽しめるようになった昨今だが、このオレも幾つか"ハマった"海外ドラマがある。『ダウントン・アビー』はそのひとつだ。『ダウントン・アビー』は20世紀初頭のイギリスを舞台に、大邸宅ダウントン・アビーで暮らす貴族、クローリー一家とその使用人たちの生活を描いたものだ。2010年から2015年まで全6シーズンが放送され、ゴールデングローブ賞エミー賞など様々な賞に輝き、世界で最も視聴されたドラマの一つとしても知られている。

とはいえ、このドラマを観る前は、オレの如きさもしいルンペンプロレタリアートが「貴族の生活とやらを描くドラマ」を観るなど片腹痛い、と思っていた。しかし、物見雄山のつもりで観始めたこのシリーズに、結局は大いに魅せられてしまったのである。確かにこのドラマには英国貴族の煌びやかな生活は描かれはすれ、移ろいゆく時代の波に変換を余儀なくされつつある彼らの姿もまた描いていた。

その中で、彼らはただ己の地位に胡坐をかくのではなく、領主としての務めと矜持を持ち、自らの家族と、使用人らも含む民衆の生活にどう責任を取るのかに腐心していた。もちろんこれは美しきフィクションであり、実際に英国貴族誰もがクローリー一家の様に民衆に理解と聡明さを示していたかどうかなど知る由も無いが、少なくとも、没落が始まりつつあった大英帝国の中で、人々がどう考えどう生きたかのか、それを貴族の暮らしの変遷から描いたのがこのドラマだった。「時代は変わってゆく」、これが『ダウントン・アビー』のテーマだったのではないかと思う。

併せて、下世話ながらもやはり当時の貴族の華麗な暮らしぶりに興味を掻き立てられ感嘆していたことも白状しておこう。広大で堅牢な城の中の暮らし、その中の豪奢な調度や絵画、服飾や宝飾の豪華さ、優雅な晩餐とたおやかな会話、これらは一つの文化史を覗き見るかのようでひたすら眼福である。描かれるイギリスの庭園風景を見るだけでも心慰まるのだ。また逆に、使用人たちのつましさや人懐こさ、人間臭い諍いと誰もが抱く様なささやかな希望といじましい悩み、これらにもまた大いに感情移入させられた。このドラマは貴族たちばかりではなく使用人たちのドラマでもあった。

■映画版『ダウントン・アビー

長々とTV版の感想を書いてしまったが、実は映画版もそれらと全く変わらないドラマが繰り広げられる。映画版はTVシリーズ最終回の2年後の事件が描かれる。それはダウントン・アビーに国王夫妻の訪問が告げられる、というものだ。国王夫妻を迎えるためにクローリー家の面々も使用人たちも大忙しの大騒ぎ、こうしていよいよ国王を迎える事になるものの、その合間にもあれやこれやの人間関係のこじれや怪しい事件、危険な陰謀が勃発して事態は一筋縄ではいかないことに……というものだ。

この映画版で描かれるのもTV版と同じく、斜陽しつつある貴族一家の憂愁と心の絆、未来への希望と変わらない愛の物語だ。同じく使用人たちの、あたかも家族同然と言っていい気兼ねの無さと信頼で結ばれた関係だ。しかしTV版との違いはやはり映画ならではの予算が掛けられた豪華さや、スクリーン上映を意識したより美しい映像の在り方、2時間という上映時間の中にたっぷりと盛り込まれたエピソードとその緊密な展開の中にあるだろう。単なるファン向けのスペシャル企画ではなく、一本の映画として綺麗にまとめられているのだ。だからTV版を観ていない方にも十分楽しめるのではないかと思う。

もうひとつ特筆したいのは、この物語が主に「女たちの物語」であるということだ。確かにダウントン・アビー当主にはロバート、執事としてはカーソンという男性が取り仕切るが、ドラマを大きく動かしているのはクローリー家長女のメアリーであり次女イーディスであり、ロバートの母バイオレットとその従弟モードとの確執であり、そこに伯爵夫人コーラやイザベルが口添えし、様々なエモーショナルなシーンを生み出す。使用人の側では家政婦長ヒューズが積極的に動き回り、侍女アンナの活躍や料理番パットモア、デイジーコンビのお喋りが楽しい風を吹かせる。さらに英国王室メアリー王女のある決意もまた描かれることとなる。

英国に女性参政権が施行されたすぐ後の時代を描くからこそ、変革への切望や慣習への疑問は男よりも女たちのほうがよりヴィヴィッドに顕れるのだろう。とはいえ男性陣が使い物にならないのではなく、そういった女性たちにきちんと理解と愛情を示し後ろから支えているのだ。また、この作品ではセクシャリティについても描かれることになる。これもまた、「変わりゆく時代」のひとつの象徴なのだ。

■”素敵さ”に満ち溢れた作品

こうして映画版として完成した『ダウントン・アビー』は、どこか性善説すら思わせる人の心の美しさや思いやりや温かさがふんだんに盛り込まれている。同時に英国風の意地悪な笑いやドタバタも想像以上に散りばめられ大いに笑わされることになる(モールズリーさん!あんた一人で持って行き過ぎだよ!)。人間同士の抜き差しならない緊張も描かれ、決してぬるま湯の様な退屈なドラマに堕していない。総じて思うのは、やはりこの物語は、とても美しいものだ、ということだ。露骨さも露悪も醜悪さも無く、格調の高さと均整があり、審美眼に優れ、人間性への信頼があり、もう二度と戻らないであろうノスタルジーの甘やかさがある。なんとこれは素敵な物語なのだろう。

TV版最終話の大団円は全てが幸福の中で美しくまとまり有終の美を飾っていた。しかしその後を描いたこの物語は、なんとそれを凌駕してしまうほどに素敵さに満ち溢れた作品となっていた。ダウントン・アビーファンとして登場人物たちの人生を追い掛け続けていた者にとって、これはもうメロメロに感慨深いことだった。沢山の素敵さを束ねた素敵の花束の様な映画、『ダウントン・アビー』にひとりのファンとしてありがとう、と言いたい。

■映画『ダウントン・アビー』予告編 

■映画『ダウントン・アビー』約10分でおさらいできる特別映像

 

 

 

すぅうぅーーっつっ

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unsplash-logo Ben Rosett

映画の感想文ばかり書いていると映画ブログの人だと思われそうだからたまには別の事も書くのである。たまにボヤいてるがオレのブログは映画ブログでもなんでもなく「なんだか雑駁で適当なもの」を書くことが主眼なのだ。ただ映画は2時間程度ボケッと画面を眺めただけで思い付きで適当なことが書けるという便利さからブログ記事にしているだけなのである。 

今日書こうと思ったのは背広の話である。スーツともいうが、オレのようなジジイ年代だと背広のほうが似つかわしく思う。オレはゲンバ(=作業現場のマイルドな表現)の肉体労働を仕事としており、一応中小企業のサラリーマンではあるが、職場には私服で出掛けている。ゲンバでは作業着とヘルメット、安全靴に着替えるわけだし、別にかしこまって堅苦しい背広を着ていく意味がないのである。そもそも背広姿は窮屈で嫌いだ。背広の皺を気にするのが鬱陶しいしシャツのアイロン掛けは面倒だしネクタイなんて絞めた日にゃあ首がきつくて肩は凝るし血圧も上がる。背広ほど健康に悪い衣服はない。だいたい今の職種を選んだのも「背広着なくていい仕事なら何でも」という理由からだった。その程度の人生設計なのであった。

とはいえ、一応社会人の端くれなので(相当に端っこのほうだが)、とりあえず背広は夏用冬用と2,3着は持っているのである。持ってはいるが先ほど書いた理由から殆どまるで着ない。着ないのだが、会社の年初に全役員従業員集って催される新年会的な行事があり、これだけには着ていくことになるのだ。ホテルのフロア借りて割と豪華にやってるんだなこれが。しかしなにしろ年初のこの会に着ていくだけなので、オレが背広を着るのは年一回、ということになるのである。

とまあこれらの事は大昔にもこのブログで書いたことがあり、この世界に1,2人いるオレのブログの大昔の読者の方なら知っておられるかもしれないが、本題はこっからでね。なにしろ着ない背広だから、昔買ったきりまるで買い換えた事がない、というか買い換える必要がない。なのでオレの持っている背広は大昔に買ったきりのものなのだが、これが多分15年ぐらい前に買ったものなんですよ。でね。なにが言いたいかというと、15年前に買った背広が、まだ着られる。いやそりゃ年1回しか着ないからほころびはしないだろうから着れるだろうが、そうじゃなく、15年前からあんまり体型が変わってないようだ、ということを言いたかったのだ。ウェストはそれほどきつくないし当然上着のほうもまだまだ余裕だ。ね、なんかスゴクないっすか?

とはいえ、15年前に買った背広だから形が古くてね。なんかこう上着もズボンもゆったりしてるんですよ。バブル期のスーツみたいな肩パットダーン!だのズボンズルズル!みたいなのではないのだが、今の背広みたいなタイトなシルエットじゃなくて、なんか、ゆったりなのね。おまけに三つボタンでね。まあもうジジイだしたいした着もしない背広の形を気にしてもしょうがないのだが、時たま「そろそろ買い換えよっかなあ」と思わないことも無いんだ。思うんだが、こんなのにお金かけたくもないしなあ、とも思うしな。かといってこの年でイオンやヨーカドーの背広も着たくないよなあとか贅沢な事も言ってんのよ。そんなことも言いつつあと5年もしたら定年だしなあ、とかグダグダは止まらない。いやしかしホントどうでもいい話なんだけどね。どうもお目汚し失礼致しました。でわでわ。

インド存亡を賭けた熾烈なる戦い/映画『マニカルニカ ジャーンシーの女王』

■マニカルニカ ジャーンシーの女王 (監督:ラーダ・クリシュナ・ジャガルラームディ 2019年インド映画)

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憂国の王妃、マニカルニカ

大英帝国の植民地政策にあえぐ19世紀半ばのインドを舞台に、暴虐なる支配に反旗を翻し、国家のため国民のため自らが戦いの先陣を切った実在の人物、 マニカルニカ王妃の数奇な運命を描いた歴史大作がこの『マニカルニカ ジャーンシーの女王』です。

主人公となるマニカルニカ王妃/ラクシュミー・バーイーを名作『クイーン 旅立つ私のハネムーン(Queen)』のカンガナー・ラーナーウトが演じ、『ガッパル再び(Gabbar Is Back)』のラーダ・クリシュナ・ジャガルラームディが監督を務めます。また、一部のシーンはカンガナー・ラーナーウト自らが監督しています(クリシュナ監督の途中降板があった模様)。脚本は『バーフバリ』シリーズ、『バジュランギおじさんと小さな迷子』のK. V. ヴィジャエーンドラ・プラサード。

【物語】ヴァラナシで生を受けたマニカルニカは剣術、馬術に秀でた活発な女性だった。彼女はジャーンシー藩王国の王ガンガーダル・ラーオ(ジーシュ・セーングプタ)とめでたく婚姻を迎えるが、生まれたばかりの王子と藩王が相次いで亡くなるという悲劇に見舞われる。マニカルニカは自らが摂政となり国を治めることを誓うが、東インド会社は法律を盾にジャーンシー藩王国の接収に乗り出し、王国を暴力的に征服してしまう。かねてから東インド会社の暴政に辛酸を舐めていたマニカルニカは、インドとその人民のため、徹底抗戦に打って出ることになる。しかし狡猾なる大英帝国の走狗との戦いは、絶望的な殲滅戦へと雪崩れ込んでゆくのだった。

■熾烈極まりない戦闘とマニカルニカの崇高なる生

まず作品の見所となるのは、マニカルニカの率いる軍と大英帝国軍との壮絶な戦いの描写となるでしょう。膨大な兵士と物資に恵まれた大英帝国軍に対し、マニカルニカ軍は兵士も物資も乏しく、大英帝国に支配された周辺藩主国は援軍を差し伸べようともしません。この状況の中で国家存亡の悲願だけを頼りに、マニカルニカは様々な戦略に打って出るのです。戦いは攻城戦、騎馬戦、白兵戦と怒涛の如く描き尽くされ、夥しい死が画面を覆い尽くすこととなります。

もうひとつは国家と民を思うマニカルニカの崇高なる生の在り方でしょう。彼女は私人であることを既に捨て去り、ジャーンシー藩王国、さらにインドのため、身を挺して戦いへと赴くのです。彼女のこのどこまでも熱い願いが、物語をとてつもないテンションへと高めます。その戦いは凄惨を極め、あたかも鬼神が乗り移ったかのようにすら見えます。夫である藩王が死去し寡婦となった時彼女は、本来なら隠遁し喪に服すべきところを、それを覆して自らが摂政となると宣言しますが、そこにも彼女の尋常ならぬ決意と堅固な意思を感じることが出来ます。

そんな彼女の生き方からは、女であるから、女であろうとも、といったことを凌駕した、鮮烈なる生の在り方を観る者に提示することでしょう。このマニカルニカを演じるカンガナー・ラーナーウトの圧倒的な演技力と存在感、さらにその凛とした美しさは、この作品の最大の牽引力となっています。

■インド歴史作品としての『マニカルニカ』

さて映画作品として観るとどうでしょう。この物語はインド国民なら誰もが知るというマニカルニカ王妃/ラクシュミー・バーイーを描いたものとなりますが、そういった神格化された部分において、キャラクターの描かれ方そのものは紋切型で平板に感じる部分があります。この紋切型は物語の冒頭の描かれ方とその演出にも露呈し、なんだか古臭いインド映画を見せられているような印象は否めませんでした。

とはいえ、この作品はテーマの在り方からインドのあらゆる階層の鑑賞を前提に製作されていると思われ、そういった部分において徹底的な分かり易さを追及した結果なのではないかと想像できます。また、そういった紋切型の退屈さも、戦いが熾烈を極めだす中盤からは払拭されることになります。東インド会社大英帝国軍の悪辣な描かれ方もやはり絵に描いたような紋切型ですが、敵役としてはこの程度で十分なのかもしれません。戦闘シーンのCGIは若干見劣りしますが、許容範囲内でしょう。

国家や王国、さらに自らの尊厳を賭け壮絶な戦いが繰り広げられるインド映画としては、最近では『パドマーワト 女神の誕生』、『KESARI/ケサリ 21人の勇者たち』など優れた歴史作品がありますが、この『マニカルニカ ジャーンシーの女王』はその流れを汲む歴史作品と言えるかもしれません。また、東インド会社の悪辣振りからは、古くは『ラガーン』、最近の作品では『Thugs of Hindostan』などを思い出させました。今年も多くのインド映画が日本で公開されるでしょうが、『マニカルニカ ジャーンシーの女王』もまた是非観ておくべきインド映画のひとつでしょう。 

■本文内で言及したインド映画一覧

■日本版予告編