新しいウォークマンを買った

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いつも使っていた携帯音楽プレイヤー、もう4年も使っていたし結構ボロッちくなってきていた。それと最初から使い勝手に難があり、微妙にストレスが溜まっていたので新しいのに買い換えることにしたのだ。ちなみにスマホに音楽ファイル入れて聴けばいい、という話もあるかと思うが、オレなんでだかスマホで音楽聴くの嫌なんだよな。

購入したのは「ソニーウォークマン 64GB Aシリーズ NW-A107」。【ハイレゾ対応 / bluetooth / android搭載 / microSD対応 / タッチパネル搭載】ということになっている。まあ以前使っていた音楽プレイヤーもソニーウォークマンだったのでたいして変わっとらんじゃろ、タッチパネルは便利そうだが、とナメてかかっていたがこれが大違いだった。

まず最初に驚いたのがWiFi搭載であるということである。いきなり設定を指示されたから「え?え?」と慌てたぐらいだ。WiFi繋いで何するの?と思ったらこれがネットに繋がる、ということなのである。しかもandroid搭載だ。つまりandroid端末としてブラウジングもメール送受信もアプリのDLも出来るということなのだ。

まあしかし全長10センチ足らずのガジェットでネットもメールも小さくて見難いだろ、と思ったが、キモはそこではなかった。まずストリーミング配信が受信できる。今は音楽配信が一般的だからこれは有用な方もいるだろう。でもWiFi環境のない所では使えないよな、と思ったらそういうことでもないらしい。

オレは音楽配信サービスは全く使っていないのだが、アマゾンプライムには加入しているので追加料金無しでプライムミュージックは利用できる。で、聴きたい音楽があればここからダウンロードしてオフラインでも聴けるんだな。知らなかった(まああんまり聴きたい音源が無いんだが)。調べたら他の配信サービスもこういう仕様らしく、Spotifyを使っている知り合いもいるがそうやって使ってたんだな。いやあホントに全然知らなかった。 

ただオレは安モンだがCDコンポを持っていて、きちんとしたスピーカーでCDを聴くほうが好きなんだよ。一応CDの音質だからな。配信の圧縮音源の音質をあんまり信用していないんだ(とか言ってPCではHDに取り込んだ音楽ファイルを聴いてるんだがな)。それなので未だにCDを山ほど買って聴いている。DL販売で取り込んだ音源はフラッシュメモリに入れればCDコンポにUSB接続して聴けるが、フラッシュメモリにアルバム10枚とか入れると曲の頭出しがホントに面倒で、やらなくなってしまった。スマートスピーカーとか買うといいのか?

しかしまあCDも1ヶ月も聴けば飽きて聴かなくなってしまうことを考えると、安価な定額料金の音楽配信サービスで充分なのかなあ、と最近は思ってきている。どうしよっかなあ。

これらは若い人にはお馴染み過ぎて「あんた今まで知らなかったの!?」てなことなのだろうが、オレも結構な年したおっさんなんでなあ、新しい物事にはやっぱり疎いんだよ。だから今でも頑固にCDを尊重してるんだ。

下の写真は今まで使ってきた携帯音楽プレイヤー。個人的にはHD仕様のアイポッド・クラシックが最強だった。でもHDだから数年で壊れるんだよなあ。続いて使ったアイポッド・ミニは容量小さくてストレスが溜まった。これは液晶欠けを起こしたのもう使用していない。ソニーの古いウォークマンは使い勝手が悪かった。アップル製品は聴いている音楽停止したかったらイヤホンぶっこ抜けばそれでよかったんだが、この古いウォークマンはそれが出来なくて、キーを長押しとかしなきゃならなくて面倒だった。ちなみに今回の新しいウォークマンは「イヤホンぶっこ抜き停止」が可能で嬉しい。ただバッテリーがすぐなくなる!

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あの『シャイニング』の続編、映画『ドクター・スリープ』を観た。

■ドクター・スリープ (監督:マイク・フラナガン 2019年アメリカ映画)

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『シャイニング』の続編、『ドクター・スリープ』を観た。ホラー小説の帝王ことスティーヴン・キングによる原作は『シャイニング』が1977年作で、『ドクター・スリープ』が2013年だから36年余り経た後の続編となる。一方映画版はというとスタンリー・キューブリック監督作品『シャイニング』が1980年の作品だから実に40年ほど前だ。このキューブリック版『シャイニング』、映画史に残る名作ホラー映画だが、さまざまな原作改変があって原作者であるキングに大きな不興を買ったことはつとに有名だ。相違点は幾つもあるが、ラストまで違うのだ。

という訳でその続編である映画版『ドクター・スリープ』だが、これは映画版『シャイニング』の続編となる。原作小説そのままだと(ラストが違うので)一部にちぐはぐな部分が出てしまうのと、やはり映画作品である以上映画版の続編であることが好ましいからだろう。とはいえこの続編の優れていることは、「映画版の続編でありながら原作1作目にも目配せをして上手く折衷を図り、はからずして映画版と原作1作目両方のバランスのいい続編映画として完成させたこと」だろう。

物語は1作目の40年後。『シャイニング』ではまだ幼い少年だったダニーはここでアル中の負け犬として登場する。彼は悪夢のような過去と”輝き(シャイニング)”と呼ばれる己の超常能力とに押し潰され、社会不適合者となってしまっていたのだ。そんな彼はある日、彼以上の”輝き”を持つ少女アブラと出会うことになる。そしてダニーは知ることになる、太古の昔から”輝き”を持つ少年少女を襲いその生気を吸い取って来た「真結族」と呼ばれる魔族たちが、アブラを襲う為に迫り来ていることを。

映画はダニー、アブラ、真結族の三者別々の描写から始まり、それらが次第に一つに交わってゆくといった流れになる。冬山ホテルの密室劇だった『シャイニング』と違い、今作は空間的な大きな広がりがあるのだ。そして超能力少女アブラ、真結族といった全く新しいキャラクターが登場し、ダニーを巻き込んでの超絶的なサイキック・ウォーへと繋がってゆく。はっきり言って『シャイニング』とは大違いだし、ダニーが登場しなければ『シャイニング』続編である必然性すらなくなってしまう物語ではある。

しかしこれが『シャイニング』続編である必然性は、ダニーのその苦悩の様に現れることになる。彼は父と同じようにアル中で苦しみ、そして彼の持つ”輝き”は、彼にとって重荷でしかない。そんなダニーがアル中を克服することで父の影から脱し、その”輝き”によって世のため人のためになる職務を見つけ、さらに少女アブラの危機を救うために尽力する。すなわちこの物語は『シャイニング』への”みそぎ”として機能しているのだ。さらにその”みそぎ”は、この物語の真のボスキャラ、あのオーバールックホテルとダニーとの最終対決という形で決着をつけようとするのだ。

映画の見所となるのはまずアブラと真結族とが熾烈なサイキック・ウォーを繰り広げるその視覚効果のあり方、前作より空間的広がりを得たことによる漂泊感とアクションの多さだろう。さらにダニーとアブラとの強烈な連帯感の様は、中年男と少女という描写の難しいコンビを、あくまで強い精神性と共闘の誓いを立てた者同士の結びつきといった形で無理なく描き出し、これはある意味性別も年齢も人種も超えた人間の結びつきを鮮やかに描き切った稀有な作品だということもできる(実は原作はもっとロリコンの匂いがした……)。あとダニーの務めるホスピスの猫の可愛らしさも付け加えておきたい。

そしてなにより、最大の見せ場となるのはあのオーバールックホテルだろう。実はこの部分が原作とは最も違う箇所なのだが、しかしオーバールックホテルを持ち出すことできっちり『シャイニング』の続編の形を成し、さらに『シャイニング』の物語に引導を渡す結果となっているのだ。物語の流れから言えばこのオーバールックホテルを持ち出さなくともお話が成り立ってしまうのだが、しかし映画という見世物の観点から言えばこれは大正解だし、そのサービス精神は大きく実を結ぶことになったと思う。この部分だけでも『シャイニング』続編の必然性が希薄だった原作を超えているのだ。ただひとつだけ難を言うと、原作もそうだったが、アブラの強力さの前では真結族の皆さんがどうにも弱っち過ぎたことかなあ。とはいえ作品としては大いに満足で、オレ的には今年後半で最も好きな映画の一本となった。 

新装版 シャイニング (上) (文春文庫)

新装版 シャイニング (上) (文春文庫)

 
新装版 シャイニング (下) (文春文庫)

新装版 シャイニング (下) (文春文庫)

 

最近読んだ本あれこれ

里山奇談 あわいの歳時記 /coco、日高トモキチ、玉川数 

里山奇談 あわいの歳時記

里山奇談 あわいの歳時記

 

桜祭りの帰り道に見た宙に浮く柔らかな光、川で投網を打っている人を襲った足元の砂の奇妙な動き、山道で「おおい、おおい」と呼びかけてくる声、憑物を籠めているという壺の秘密……不思議でどこか懐かしい短編集。 

「山」という異界と「里」という現世の中間にある「里山」、そのあわいにある不思議な話を集めた『里山奇談』も遂に第3弾発売というから、いかに多くの支持を受けたか伺い知れるというものである。恐怖や怪奇や不条理ではなく不思議、不可思議がこの作品集の中心となるものだ。これは恐怖譚がその根源に「死」がありそれが恐怖を生むのと対比的に、この作品集にあるのは幾多の生命を抱える自然への畏敬であり、即ち「生」というものの不思議さ、愛おしさがその根底にあることの違いなのだろう。不思議な物語の多くに接しそして読み終わった時に、何か心に豊かなものが残るのはその為なのだ。

 

■処刑御使/荒山徹

処刑御使

処刑御使

 

黒船来航を機に三浦半島に創られた長州藩相模警備隊。貧しい下士に生まれた少年、伊藤俊輔にとって、その応召は立身の希望の光であった。だが、彼は着任早々「処刑御使」と名乗る謎の刺客に次々と襲われる。なぜ自分が?彼らの正体とは?俊輔が一切を解した時、国家の命運を賭けた壮絶な闘いが始まった。伝奇小説の鬼才が放つ白熱の幕末異聞。

少年時代の伊藤博文を亡き者にするため、未来から恐るべき刺客たちが送り込まれた!?という【和風ターミネーター】とも呼ぶべき伝奇小説です。伊藤少年を襲うのは人間火炎放射器!大ムカデ!動く仏像!辺りは血の海、屍累々!そこへ伊藤少年を救うため現れた巫女姿の美女!……とまあひたすら奇想天外の限りを尽くしているこの小説、これだけだと単なるキワモノに思われるかもしれんませんが、読み進めると日清戦争日露戦争を経た日本と韓国とのこじれにこじれた悲しい関係がその根底にある事が徐々に描かれ始め、実はこれは透徹した歴史観の中で描かれている物語であることが分かってくるのです。物凄く興味深過ぎてオレ、Wikipediaの日清・日露戦争の項目全部読んでしまったぐらいだよ。なぜ少年伊藤が狙われるのか?というのは、伊藤博文がどのようにして死んだのか?ということにも繋がってきます。韓国って、いろいろ取り沙汰されるけど、実際のところどんな歴史を持った国だったんだろう?ということを知ることが出来たのと同時に、そんな韓国と、どのように前向きな未来を作って行けるだろう?という示唆迄含まれていて、単なるエンタメ小説に終わらない同時代性を持った素晴らしい小説でした。

 

■ネクサス(上)(下)/ラメズ・ナム

ネクサス(上) (ハヤカワ文庫SF)

ネクサス(上) (ハヤカワ文庫SF)

 
ネクサス(下) (ハヤカワ文庫SF)

ネクサス(下) (ハヤカワ文庫SF)

 

神経科学研究の進歩により、ポストヒューマンの存在が現実味を増し、その技術が取り締まられるようになった近未来。記憶や官能を他人と共有できるナノマシン、ネクサス5を生み出した若き天才科学者ケイドは、その存在を危険視した政府の女性捜査官サムに捕らわれてしまう。彼女らに協力を要請されたケイドは、スパイとなって中国の科学者朱水暎を探ることになるのだが!?息詰まる攻防を描くノンストップ・SFスリラー。

この物語のキモとなるナノマシン、ネクサス5はあたかもテレパスのようにお互いの思考と感情を共有し一体感を得られることができる発明なんですが、政府はそれによって生み出されるポストヒューマンを危険視し強硬な取り締まりに乗り出すんですね。確かに「ナノマシン」というハイテクノロジーは描かれますが、基本となるのはヴォークト『スラン』や竹宮恵子地球へ…』みたいなテレパスと一般人との軋轢と弾圧といった古いSFテーマを蒸し返したようなお話なんですね。さらにそれにニューエイジっぽい「精神の扉」みたいなオハナシが加わって、途中までは「なんだかなー」と少々退屈したんですが、クライマックスに向かうにつれて鮮明になる米中の対立構造とそこに投入される強化人間による超絶バトルや近未来兵器を駆使した局地戦が加わり、これが相当に映像的な描写で興奮させられるのですよ。作者はもともと技術畑の方らしく、そのキャリアから生み出されたアイディアでこの物語を描いたようで、だから小説的なバランスには少々難はありますが、いきなりの攻殻機動隊展開は実に素晴らしかった。

 

ヒトラーの描いた薔薇/ハーラン・エリスン

無数の凶兆が世界に顕現し、地獄の扉が開いた。切り裂きジャックカリギュラら希代の殺人者たちが脱走を始めた時、ただ一人アドルフ・ヒトラーは……表題作「ヒトラーが描いた薔薇」をはじめ、地下に広がる神話的迷宮世界を描いた傑作「クロウトウン」ほか、初期作品から本邦初訳のローカス賞受賞作「睡眠時の夢の効用」まで、アメリカSF界のレジェンドが華麗な技巧を駆使して放つ全13篇を収録した日本オリジナル短篇集。

最初に書いちゃうと相当に退屈した。「暴力と苦痛のSF作家」エリスンの、そのテーマの在り方はよくわかったけれども、正直言って作家としての才能はどうにも凡庸だ。この短編集に収められている物語もどれも短編として未熟でバランスが悪くまとまりに乏しい。パンクロックみたいに「ワッ!」とやっちゃう瞬発力や鬼面人驚かすエキセントリックさはあるけど、結局そこで満足して終わっちゃってる。そもそもエリスンの短編集って『世界の中心で愛を叫んだけもの』(これも個人的にはつまらなかった)が1973年に日本で発表されて以来なしのつぶてで、ここ数年でバタバタ出されたようだけれど、実の所編集者も作品の出来が悪いから出版を差し控えていたってことなんじゃないかな。エリスンのSF界における功績は高いけれども、ちょっと持ち上げられ過ぎな気がする。

ラテンアメリカ文学短編集を3冊読んだ

ラテンアメリカ短編集:モデルニズモから魔術的レアリズモまで/野々山真輝帆 編

ラテンアメリカ短編集―モデルニズモから魔術的レアリズモまで

ラテンアメリカ短編集―モデルニズモから魔術的レアリズモまで

 

モデルニズモから魔術的レアリズモまで、ラテンアメリカの作家たちは、民族や国境を超えた新しい文学、新しい魂を表現しようとした。豊穣なラテンアメリカ文学の生成と発展、多面的な文学空間へ招待する短編集。

ラテンアメリカ傑作短編集:中南米スペイン語文学史を辿る/野々山真輝帆 編

ラテンアメリカ傑作短編集: 中南米スペイン語圏文学史を辿る

ラテンアメリカ傑作短編集: 中南米スペイン語圏文学史を辿る

 

スペイント語圏ラテンアメリカ短編文学のはじまりともいえる重要作品「屠場」をはじめ、幻想的な「ルビー」「赤いベレー」「新しい島々」、大地の渇きが伝わる「インディオの裁き」「その女」など、ロマンチシズムからモデルニズモ、クリオーリョ主義、実存主義までの多彩な傑作短編を、文学の発展過程を見通せるように編纂。本邦初紹介作品を含む、心を打つ名作18編。

ラテンアメリカ傑作短編集〈続〉:中南米スペイン語圏の語り/野々山真輝帆 編

ラテンアメリカ傑作短編集〈続〉: 中南米スペイン語圏の語り

ラテンアメリカ傑作短編集〈続〉: 中南米スペイン語圏の語り

 

マジックリアリズムだけじゃないラテンアメリカ文学の内省と豊穣。多彩な情景、多様な手法。深まる内省、増しゆく滋味…幻想と現実のあわいで揺れる多彩な作品群。10カ国にまたがる作家たちが紡ぐ、16のきらめき。日本初紹介作家を含む、短編アンソロジー

 ちょっと前にラテンアメリカ文学短編集を集中して読み、沢山の面白い作品に触れることが出来たのだが、こんな短編集が他にも出版されていないものだろうか、と探して見つけたのが今回紹介する3冊である。

いずれも彩流社というオレにはあまり馴染みの無い出版社から出版されており、その全てにおいて野々山真輝帆という方が監修されている。この野々山真輝帆氏(故人)、スペイン文学者で筑波大学名誉教授だった方なのらしい。収録されている作品はどれもイリノイ大学大学院ラテンアメリカ文学講義に用いられたリーディングリストから採用、訳出者は朝日カルチャーセンターのスペイン文学翻訳教室の有志によるものなのだとか。

で、まあ、読んでみたのだが、正直なところ、大変申し訳ないのだが、全体的に、面白くない作品が多かった。面白くなかった、というよりも、オレがラテンアメリカ文学にイメージする類の作品とは違う作品が殆どだった、ということになるだろう。

まず、セレクトがイリノイ大学ラテンアメリカ文学講義用であった、ということで、これはつまり作品として面白いとか面白くないとかではなく、文学史の流れの中での代表的な作風、もしくは変節点にある作品、を多く取り上げることになったのだろう。

さらに、なにしろ文学史的に訳しているので、ラテンアメリカ文学黎明期の非常に古い作品から掘り起こされている、ということが挙げられるだろう。これはラテンアメリカ文学が生まれたとされる19世紀半ばから20世紀初頭にかけての作品であり、文学史的には「モデルニズモ(モダニズム近代主義)」と呼ばれる文学運動を経て発生したものであるのらしい。

オレが慣れ親しんでいるラテンアメリカ文学はこのモデルニズモ運動の後に登場する作家のものばかりであり、これは20世紀中期に登場することになるのだ。例えば代表的な作家作品としてはボルへスの『伝奇集』が1944年、ファン・ルルフォの『ペドロ・パラモ』が1955年、バルガス・リョサの『緑の家』が1966年、そしてマルケスの『百年の孤独』が1967年と、いわゆるラテンアメリカ文学ブームを巻き起こした作家作品が殆どこの20世紀中期のものであることが分かる。

そういった部分でこの野々山真輝帆編によるラテンアメリカ文学短編集はラテンアメリカ文学ブーム以前のラテンアメリカ文学作品を網羅したものだということができ、エンタメとして楽しむ文学というよりはもっと学術的で史学的な位置にある諸作品ということになるのだろう。だから面白いとか面白くないとかそういった読み方をする作品集ではなく、文学史を紐解く形で接するべき作品集であるということなのだろう。

これら初期モデルニズモ文学がどうつまらなかったかということをあえて書くならば、まずマジックリアリズム的作品が皆無であること(そもそもそういった作風がまだ生み出されていない)、その代わりに今読むと古臭く感じる童話的であったり寓話的であったりする作品が散見すること、ラテンアメリカ世界の貧しさや暴力的気風、それらの果ての絶望的で救いの無い作品が多かったこと(映画もそうだが近代主義傾向の作品によく見られる)、要するにひねりがある訳でもなくそのまんま過ぎる生々しさに辟易させられた、ということがあった。

そういったわけでオレの如き半可通の文学好きにとってそれほど楽しめた短編集ではなかったけれども、はからずしてラテンアメリカ文学のその黎明期からの潮流を体験するいい機会とはなった。また、幻想的な作風の幾つかの作品は、これはオレの好みなので十分楽しめた。その中で、「ラテンアメリカ傑作短編集」収録エステバン・エチュベリーア作『屠場』は、ラテンアメリカ文学の嚆矢と呼ばれる重要作品で、これを読むことが出来たのは僥倖であった。さらに「ラテンアメリカ傑作短編集〈続〉」あたりになってくると、後半から20世紀中期に活躍する作家がちらほら登場し始め、これらはやはりモダンな味わいがあって楽しめた。 

映画『ゾンビランド:ダブルタップ』は単なる同窓会映画だったなあ

ゾンビランド:ダブルタップ (監督:ルーベン・フライシャー 2019年アメリカ映画)

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「ゾンビ世界で生き残るにはルールが大事だッ!ヒヤリハットは命取り!日頃の点検怠るな!指差し確認で安全確保!ゼロ災でいこう、ヨーッシ!」というどこかの作業現場みたいにルール順守の連中がゾンビ世界をサヴァイブする映画『ゾンビランド:ダブルタップ』でございます。これ、2009年公開の映画『ゾンビランド』の続編なんですな。タイトルの「ダブルタップ」というのは「ルール2、二度撃ちして止めを刺せ」と2作目であることに準じているのありましょうや。

出演陣は前作と一緒、ジェシー・アイゼンバーグウディ・ハレルソンエマ・ストーンアビゲイル・ブレスリン。何故か前作でアレなことになったビル・マーレイも出演しているのでお楽しみに。監督も前作と同じルーベン・フライシャーが務めます。

それにしても『ゾンビランド:ダブルタップ』の出演陣、『ゾンビランド』後の10年で物凄く注目される俳優へと成長していて驚かせられますね。ジェシー・アイゼンバーグはなんといっても『ソーシャル・ネットワーク』だしDCEU映画『 バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』や『ジャスティス・リーグ』だし、ウディ・ハレルソンは『スリー・ビルボード』で『ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー』だし、エマ・ストーンは『ラ・ランド』で『アメイジングスパイダーマン』ですよ。アビゲイル・ブレスリンは……まあいいや。

しかし10年も経って続編というのもスゴイ、というかきっと監督ルーベン・フライシャーが2018年の『ヴェノム』製作の余勢をかって「おっしゃー!好きなことやるぞおお!」とか言いつつ作ったのではないか想像しております。とはいえそんなに続編が待たれた映画だったっけか?と思わないことも無いんですが……1作目、確かに面白いっちゃあ面白かったけど、あそこから何か膨らますようなお話だったけかなあ、という気がしないでもない。

とまあ長々と前置きを書きましたが、なんでこんなに長々と前置きをして回り道をしたかというと、ええっと、実はそれほど面白くなかったからで……いやあどうもスイマセン。

いや、面白くなかった、というのは言い過ぎで、映画館にいる間はそれなりに楽しめた、あれやこれやの小ネタに終始クスリとさせられた、というのが正確な所ですが、いわゆる「映画のデキ」として全体を眺め回して見るならば、なんかこうシナリオにインパクトがない、練られてない、エピソードをあれこれと無理矢理ヒリ出してなんとかお話を繋いでいる、なんだかその場の思い付きで特に吟味せず勢いだけで作ってしまった、そんな印象なんですよ。ゾンビ映画だけに「死に体」な映画になってしまってるんですな。

まず舞台ですよね。冒頭のホワイトハウスやその後のエルヴィスの聖地やクライマックスの「バビロン」や、まあロケーションとして面白いっちゃあ面白いんですが、で、なんでそこなの?という必然性があんまり感じないんですよ。その「バビロン」に住む連中、いわゆるニューエイジな皆さんなんですが、それで?と思うけど特に話が膨らまない。見た目はおかしいですが批評性があったり皮肉であったりというものでもなく、ただニューエイジってだけ。

そしてこの2作目から登場する「進化したゾンビ」ね。これ、ルール順守の連中によりゾンビ討伐がやり易くなってしまったがために、敵をパワーアップさせなきゃバランス取れなくなるってことで登場させたんでしょうね。でも結局「カタイ敵」以上の特徴のない芸の無さで、拍子抜けさせられる。エルヴィスの聖地で登場したあの二人も「主人公二人と似ている」という設定が何の役に立ったのかさっぱりわからない。なんかこー、「続編」というよか「二次創作」みたいな映画なんだよな。これじゃあ単なる同窓会だよなあ。

そんなションボリさせられる作品ではありましたが、見所が無いわけでもない。それは、ゾーイ・ドゥイッチ演じる新キャラ、大バカ女のマディソンなんですね!このマディソンさん、ひたすらフワフワチャラチャラした脳みそお花畑で人生全てナメ切ってるアッパラパー女なんですよ。普通こういうキャラが映画に登場したら、見ているだけで苛立たせられること必至の上、この映画みたいなホラーテイストの作品やサスペンス作品であれば、主要人物の足を引っ張ってさらに苛立たせられるもんです。ところが、この『ダブルタップ』では奇跡のように物語を風通しよくさせ、なおかつ心憎いフックをもたらしてくれる存在となってるんですよ!

そもそもこのマディソンさん、こんな大バカ女がゾンビアポカリプスな世界で今までどうやって生き延びてたんだ、と眉間に皺寄せさせる存在であると同時に、物語の中でもこんな大バカ女がなんで生き延びられるんだ、と呆れ返ってしまうキャラクターなんですよ。ゾンビ映画で有り得ないですよこんな人。で、そこがいい。ゾンビとの熾烈な戦いをマジぶっこいて繰り広げるわけでもなく、フワフワヘラヘラと適当にクソナメ切った生き方だけでゾンビ世界を生き延びてしまう。これ新しい。最強。そしてこういうキャラが登場できるからこそのコメディ作なんですね。もうこのマディソンさんを主人公にして作品作った方がよかったかもしれないとすら思わせました。そう、ゾンビ世界も人生も、ナメ切ってナンボ!!ここ、大事な所ですよ!