『IT』第2章にして最終章、映画『IT イット THE END “それ”が見えたら、終わり。』を観た。

■IT イット THE END “それ”が見えたら、終わり。 (監督:アンディ・ムスキエティ 2019年アメリカ映画)

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スティーブン・キングの最高傑作とも謳われるホラー小説『IT』の映画化作品、第2章にして完結編である。2017年に公開された1作目の邦題は『IT イット “それ”が見えたら、終わり。』 、そして今作の邦題が『IT イット THE END “それ”が見えたら、終わり。』。なんだか長ったらしいし似通ってるので原題にあやかりそれぞれ「第1章」「第2章」と呼ぶことにする。

『IT』はアメリカの架空の地方都市デリーを舞台にした恐怖譚である。まず第1章における時代は1988年。街で子供ばかりの行方不明事件が立て続けに起こり、主人公ビルの弟も雨の中姿を消す。そして夏休み、ビルを筆頭にした”ルーザーズ・クラブ”の少年少女7人は行方不明事件の真相を知ることになる。それは大昔から街の下水道に巣食う”それ=IT”の仕業だった。”それ”はあらゆる恐怖を撒き散らしながら子供たちに襲い掛かるが、7人は協力し合って”それ”を倒すことに成功する。しかし、”それ”が27年おきにこの街を襲っていたことを知った彼らは、27年後に”それ”が街で猛威を振るいだした時にまた再開することを誓って物語は終わる。

この物語における恐怖の本質であり、ペニーワイズと呼ばれるピエロの格好をした怪物は、あくまで仮の姿でしかない。子供たちの前に変幻自在な形となって現れ恐怖に陥れる得体の知れない存在ということから”それ(IT)”と呼ばれているという訳だ。そして第2章では、第1章の27年後、再び活動を始めた”それ”と対峙するため、すっかり大人となったルーザーズ・クラブの7人に集合が掛けられる、というところから物語は始まるのだ。

原作自体は随分昔に読んだが、なにしろ大昔なので単純なアウトラインしか覚えていない。おまけに映画化作品以前にTV版として製作公開された『イット』とも記憶がごっちゃになっている。だからこの映画版がどれだけ原作に忠実なのか、はたまたどこが違うのか、という事はまるで指摘できないのだが、それでも、原作、あるいはキングという作家の持つテイストを非常に丁寧に・丹念にそして相当のリスペクトを込めて製作されているということはしっかり伝わってくる作品だった。キング原作の映画作品は玉石混交なのだが、この『IT』はその中でも非常に成功している作品だし、あくまで原作に寄り添おうという真摯さにおいては最高のキング原作映画かもしれない。

それは子供時代を描く第1章においてはビタースウィートなノスタルジーの形となって描かれるし、大人になった主人公らを描く第2章においては現実の壁に阻まれて苦渋を味わい続けるそのままならなさ、といった形で描かれる。第1章において子供たちの未来にはいかようにも輝ける予感があった筈であったのに、その未来に到達した第2章にあるのは味気ない現実への失望感でしかない。確かに大人になり猥雑な現実の中で生きるという事は、味気ない失望を受け入れ続けるという事なのかもしれない。しかしこの第2章では、そんな彼らが27年振りに集い、大いなる恐怖である”それ”と再び対峙することにより、各々の中で失われていた「何か」を取り戻そうとする、という物語となっているのだ。それは物語内において「子供時代の失われた記憶」として描かれるが、その「失われた記憶」とは、「”生”の実感」そのものの事だったのではないだろうか。

映画的に見るなら、子供時代を描く第1章と大人となった第2章のそれぞれの俳優が、本当にそのまま成長した姿なのではないかと思わせるほどそっくりでびっくりした(こんな雰囲気 ↓ )。

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成長後の姿を演じるジェームズ・マカボイにしてもジェシカ・チャスティンにしても、それなりに個性のある俳優の筈なのに、最初からしつらえてあったようにすら見えてしまったが、これは顔つきが、というだけではなく演技・演出・メイクが一体になった成果なのかもしれない。

ホラー演出やクリーチャー造形に関しては、これは昨今の新進ホラー監督による先鋭的なそれとはまた別な、 ジョー・ダンテあたりの時代を思わせるグロテスクの中にコミカルさが入り混じったもので、最近のホラーが怖すぎて観ることの出来ないオレにも十分楽しめた。これはペニーワイズ→クラウン→サーカスや遊園地を連想させるダークファンタジー風味な演出/クリーチャー造形ということだったのかもしれない。

なにより驚いたのはこの第2章の中に頻繁に過去の子供時代シーンが挿入されていたことで、しかもこれらのシーンはどれも第1章には無かった、または別視点のシーンばかりだったということだ。これは第1章撮影時に、この第2章製作も見越して子役たちのシーンを撮り溜めしていたということなのだろうか。なぜなら子供というのはとても早く成長するからで、そして第1章と第2章の間には2年の間があるからだ。正確なところは分からないのだが、どちらにしろ、この第2章の中に、まるで決して色褪せない記憶のように主人公たちの子供時代が鮮やかな映像となって挿入されている部分に、奇妙に感銘を受けてしまった。


映画『IT/イット THE END “それ”が見えたら、終わり。』予告編

IT〈1〉 (文春文庫)

IT〈1〉 (文春文庫)

 
IT〈2〉 (文春文庫)

IT〈2〉 (文春文庫)

 
IT〈3〉 (文春文庫)

IT〈3〉 (文春文庫)

 
IT〈4〉 (文春文庫)

IT〈4〉 (文春文庫)

 

映画『ロボット2.0』は奇絶!怪絶!また壮絶!な物語だったッ!?

■ロボット2.0 (監督:シャンカル 2018年インド映画)

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「インド映画史上最高額の製作費90億円」「2018年インドNO.1ヒット、インド映画歴代でも第2位」などと景気のいい宣伝文句で現在公開中のインド映画『ロボット2.0』は2010年に公開された『ロボット』の続編となる作品である。

1作目である『ロボット』はとんでもなくおったまげさせられた映画だった。まだ日本公開未定の段階で「インドでおそろしくぶっ飛んだVFXの映画が公開されている」とネット上で話題となり、その一部を紹介した動画を観たがそれはもう本当に「アリエネーッ!!!」と絶叫したくなるような映像で、インド映画の事などまるで知らなかった当時のオレが矢も楯もたまらずすぐさまインド雑貨の店で輸入DVDを注文したぐらいであった。

1作目の物語は心を持ったロボット、チッティとそのレプリカである戦闘ロボット軍団との戦いを描くSFアクションだ。大枠で言うなら「A.I.の叛乱」と「A.I.の人権」がテーマとなる作品である。しかしこういったシリアスなテーマを中心としながらも、笑いとロマンス、百花揺籃な歌と踊りをふんだんに盛り込み、インド映画らしい噎せ返るような芳香に満ちた作品として仕上がっていた。そしてなにより、そのアクションの発想とビジュアル化が、唖然呆然としてしまうほどに突き抜けた作品であったことは言うまでもない。その表現力はもはや世界レベルどころか、唯一無二と言っていい。

そしてその続編となる『2.0』である。物語はインドの都市チェンナイにおいて、全てのスマートフォンが人々の手をすり抜け宙へ飛び去ってしまうという怪事件が起こるところから始まる。そしてそれら消え去ったスマホは合体し、巨大な怪鳥となって街や人々を次々と襲い始めたのだ。ロボット工学者バシー博士(ラジニカーント)は伝説のロボット・チッティ(ラジニカーント二役)を再起動、消えたスマホと合体した怪鳥の謎を解明するため危険な戦いへと乗り出すのだ。

1作目は「A.I.の叛乱」「A.I.の人権」という実にSF作品らしいテーマだったが、この『2.0』は「スマホ依存の危険」と「高度情報化社会の陥穽」という現代的・社会的なテーマを持ち込んでいるという部分で実にキャッチ―な作品だと言えるだろう。スマホに慣れ親しんだ我々だからこそ、この物語に強い訴求力を感じるのではないだろうか。街中の全ての人がスマホを失うことで大パニックに至り、ついに軍隊まで出動する、という流れは、逆にこの小さな電子機器がいかに人々の生活に無くてはならないものとなり、それに依存しきった生活を営んでいるのかを浮き彫りにし、さらにそのスマホが合体して人を襲うという展開は、それだけでもどぎついアイロニーであるに違いない。

とはいえ、こういった社会派な問題提起ありきの物語ではなく、そこで描き出されるビジュアルがなにより新奇で面白いものだからこそ生きる作品なのだ。大量のスマホが空を飛び交う!大量のスマホが川となって流れてゆく!大量のスマホが合体して鳥になる!そして人々を襲い街がパニックとなる!なぜそうなったのかという理由はさておいて、この「訳が分からないけどなんだかとんでもないことになっている、とんでもない映像として描かれている」という部分がまずなにより面白く、興奮させ楽しませてくれるのだ。そして、「なんでそんなことを思いついちゃうの!?」という奇想の在り方に感服させられるのだ。

こうして前半、雪崩の如く暴走するこの物語は、後半において明らかになる「理由」と「真実」により、逆に沈痛と悲哀とが渦巻くエモーショナルに振り切った展開を見せ始めるのだ。ここで中心となる男パクシ(アクシャイ・クマール)については多くを語らない事にするが、彼のその存在が、どこまでも躁的にはっちゃけていた1作目とはまた別個の、暗鬱な空気感をこの2作目にもたらしていることは確かだろう。正直なところ、主役たるロボット・チッティの変幻自在な戦い振りには前作を超えるほどの驚きを感じなかったけれども、パクシのどこまでも禍々しい妄念の噴出とそのビジュアルが、今作を牽引することとなるのだ。そしてこの悲痛なる暗鬱さはシャンカルの前作『マッスル 踊る稲妻』に通ずるものがある。すなわち『ロボット』と『マッスル 踊る稲妻』との作品的フュージョンがこの『2.0』であるという事もできるのだ。

監督シャンカルのこれまでのフィルモグラフィを振り返ってみると、彼の作品の多くは、「アンビバレンスの中にある個人の苦悩と矛盾の物語」であることに気付かされる。例えば『その男シヴァージ』や『インドの仕置人』は「社会的腐敗に対抗するために自らも穢れた仕事に加担してしまう男の物語」であったし、『ジーンズ 世界は2人のために』は双子が主役というそれ自体がアンビバレンスの物語だった。『マッスル 踊る稲妻』は「愛と憎しみの間で引き裂かれてゆく男の物語」だし、『ロボット』は「人間性と非人間性の狭間で苦悩するA.I.の物語」だ。ではこの『2.0』はどうか。それは「正義のために死と破壊を選択してしまう男の物語」ではないか。アンビバレンスの中にある苦悩と矛盾、それは大なり小なり現代の社会生活者の心に存在するものだ。奇想天外なヴィジュアルとアイディアで観る者を驚かせながら、同時に現代人の心のひだに澱の様に溜まった苦悩を照らし出してゆく、そんなシャンカル監督の手腕に観客は魅せられるのではないだろうか。

映画的に見るなら、スーパースター・ラジニは、お年のせいなのかあんまり動いていないように見えた。アクション・シーンは代役だと思うがどうなのだろう。アクシャイ・クマールはメイクし過ぎで誰でもいいような気もするが、その存在感はやはりアクシャイのもののように思う。女性アンドロイド役のエイミー・ジャクソンは、ウーンあんまり魅力を感じなかったなあ。2時間半ある映画だったが、あっという間だった。余計な寄り道が無いこともあるが、やはり歌と踊りのシーンがエンドロール以外一切なかったからなのだろう。同時に、大ヒット作の1作目の続編という事で、シャンカル監督が相当にシビアに作り込んでしまったからというのもあるだろう。結果的に1作目の天衣無縫な語り口調は後退してしまったが、あくまで挑戦的な作品作りに挑む態度は全くぶれてはいなかったと思う。


映画『ロボット2.0』予告編

■参考:このブログでのシャンカル監督作品レビュー一覧

ウィリアム・ギブスン脚本による幻の『エイリアン3』をコミック化した『エイリアン3 オリジナル・スクリプト』

エイリアン3 オリジナル・スクリプトウィリアム・ギブスン(作) ジョニー・クリスマス(翻案・画)

エイリアン3:オリジナル・スクリプト 限定カバー版

1992年にデヴィッド・フィンチャー監督により公開されたSFサスペンス映画『エイリアン3』は企画段階から非常にトラブルが絶えなかった作品であり、公開後もその評価はシリーズ作品としては今一つのものだった。

オレも劇場で最初観た時は「なんじゃコリャ」と憤慨したクチだが、やはりそれは1作目2作目のサスペンスやスペクタクルとあまりに掛け離れた作品で、まるで期待にそぐわなかったからだった。しかしその後何度か観直す度に、この作品なりの美点や面白さが伝わってきて、今では「これはこれでアリの作品なんじゃないか」という評価に落ち着いている。4作のエイリアン・シリーズを見渡してみると、それぞれに特色がありカラーが違っていて、そこが面白いと思うのだ。

その『エイリアン3』、脚本にSF作家ウィリアム・ギブスンが参加していた、というのはSFファンには割とよく知られている事柄だったのではないだろうか。ウィリアム・ギブスン、『ニューロマンサー』や『カウント・ゼロ』など、今ではお馴染みの「サイバーパンク」というジャンルの草分けであり、時代の寵児となった作家の一人である。

しかしギブスンによるその脚本は採用される事なくお蔵入りとなり、別の脚本家による脚本で映画は完成することになった(脚本から採用されたのは映画に登場する囚人の頭の後ろのバーコードだけだった)。そして出来上がったのがあの作品だったことを考えると、「ギブスン脚本だったら、もっとどうにかなっていたんじゃないか」と当時のSFファンは歯痒い思いをしたのではないだろうか。なぜならオレもその一人だったからである。

そのギブスン脚本による幻の『エイリアン3』が、なんと映画公開から20年以上も経ってコミック化されたのである。こういった企画が通るというのも、きっと本国でも「ギブスン脚本の『エイリアン3』がどんなものだったのか知りたい、観たい!」というファンがいまだに多かったからなのではないだろうか。

そしてなにしろギブスン版『エイリアン3』である。このギブスン版では、『2』で惑星LV-426から脱出したリプリー、ニュート、ヒックス、ビショップ4人全てが生存している、という設定から始まるのだ。ここからして身を乗り出してしまうではないか。物語はざっくりこんな感じ:

西側陣営と先進人民連合(通称UPP)の間で冷戦が続く未来の深宇宙。ウェイランド・ユタニ社直属下の前哨基地、アンカーポイントに1機の輸送船がたどり着く。4年前、惑星LV-426の調査に向かったきりだったスラコ号だ。時を同じくして、ウェイランド・ユタニ社の科学者2名も基地に到着する。核戦争のリスクを取ってまで彼らが狙うものが、スラコ号にはあった…。

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この作品では「西側陣営と先進人民連合との冷戦」という対立の構図が物語の根幹を成しており、その中で「宇宙最悪の生物兵器エイリアン」を巡る虚々実々の駆け引きと、その後お待ちかねエイリアン大発生による血塗れの踊り食い大会が展開することになる。とはいえリプリーを始めとする『2』からの生還組はビショップを除き全く、あるいはほとんど活躍しない。それとは別の主人公、登場人物が活躍するストーリーとなっているのだ。だから「リプリーVSエイリアンの戦い再び!」と期待すると肩透かしを食うだろう。

そもそも、「冷戦構造」という対立の構図は持ち込まれはすれ、エイリアンの恐ろしさを甘く観ていた連中によるヒューマンエラーの連続が最終的な惨劇を生み出すことになる、という話の流れは『1』や『2』とさして変わらないものであり、かといって『1』『2』とは別の新機軸や新たな展開が持ち込まれることも無く、残念ながらこのギブスン版『3』、このまま映画化されてもそれほど面白い作品になったかどうかは疑問だ。これだったら実際に映画化された「収容所惑星における決死の追いかけっこ」が主軸だった『3』のほうが少なくとも設定の新奇さにおいて勝っている。それと、グラフィックのほうも、ちょっと想像力が足りないような気がする。

とはいえそれでも、その後公開された『プロメテウス』や『エイリアン:コヴェナント』も含めて「エイリアン・ワールド」を愛して止まないオレの様な人間にとっては、このギブスン版『3』は避けて通れない作品であったし、「存在したかもしれないもう一つのエイリアン史」としてこの作品は重要な位置にある。結果的に内容としてはイマイチではあったが、エイリアンを愛するエイリアン民のコレクターズ・アイテムの一つとして加えてもいいのかもしれない。

なおこのコミックは限定カバー版と通常版の二つのカバーで発売されており、値段は一緒なので購入を予定されている方はお好きな方を選べばいいだろう。

エイリアン3:オリジナル・スクリプト 限定カバー版

エイリアン3:オリジナル・スクリプト 限定カバー版

 
エイリアン3 オリジナル・スクリプト

エイリアン3 オリジナル・スクリプト

 

 

 

冷え冷えとした無機的なディストピア感/映画『アップグレード』

■アップグレード (監督:リー・ワネル 2018年アメリカ映画)

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そう、その映画は最初ノーチェックであった。しかしツイッターで評判を知り、そして予告編動画を観て、なんだか映画に行きたくなったのである。ただしタイトルを忘れてしまい、なかなか思い出せないでいたのだ。これでは映画に行くことができないではないか。ええと確か、『インストール』だったか、『ダウンロード』だったか、『アップデート』だったか、なんだかそんなパソコン用語チックなタイトルだったような気がしたのだが・・・・・・パソコンと言えばそろそろOSをWindows7からWindows10にアップグレードしなきゃならんよなあ・・・・・・んん??そうだ、映画のタイトルは『アップグレード』だああああ!!

というわけで映画『アップグレード』である。近未来、主人公グレイは謎の暴漢たちの襲撃に遭い、妻は殺害、自らも全身麻痺となってしまう。失意の中にあるグレイに、懇意にしていた天才科学者からある提案が成される。それは「STEM」と呼ばれるまだ実験段階の最新AIチップを身体に埋め込むことだった。手術の結果、グレイは体の機能を取り戻したばかりか、常人を超える身体能力を獲得することとなる。さらに「STEM」とは対話可能であり、いち早くアドバイスや情報を得ることが可能となったのだ。こうしてグレイの復讐が始まることとなる。

主人公グレイを演じるのは『プロメテウス』、『スノーデン』、『スパイダーマン:ホームカミング』のローガン・マーシャル=グリーン。製作は『ゲット・アウト』、『アス』のジェイソン・ブラム。監督は『ソウ』、『インシディアス』シリーズで脚本や監督を務めたリー・ワネル

この作品、ジャンル的に言うならハイテク・ホラー、SFサスペンス・アクションといったところだが、もうひとつ、『96時間』や『イコライザー』のような「無双系」の映画だと言うこともできる。なにしろそれまではごく普通の一般市民で、しかも現在は全身麻痺で車椅子生活を強いられていた男が、AIチップを一発ブチ込まれた途端に、目にも止まらぬ動きと正確かつ確実な攻撃を可能にする戦闘マシーンと化してしまうからだ。

その戦闘シーンもちょっと独特で、主人公は棒立ちになったまま手足をひょひょひょいと動かして相手の攻撃を阻止し、その合間を付いて必殺の一撃を加えるといった、実に機械的な動きを見せる部分に「AIが身体を動かしている!」という雰囲気を出させている。この格闘技の「型」とは全く別個な戦闘シーンのあり方が斬新で面白い。また、AIならではの状況把握能力、情報収集能力、危機探知能力も高く、主人公を単に戦闘機械にするだけではなく、暴漢どもを捜査するヒントを次々に与えてゆくのだ。

そしてそんな「機械化された主人公」の敵となるのも実は「戦闘機械へとサイボーグ化された元兵士の集団」なのだ。この機械化人間VS機械化人間の人智を超えた戦いの様子がもうひとつ斬新なポイントだが、ニンジャの如きトリッキーな動きと攻撃方法で戦うがゆえに、『ターミネーター』や『ロボコップ』のようなサイボーグ/アンドロイドが登場し銃撃戦と肉弾戦を繰り出す作品とは一線を画している。さらにそんな「サイボーグ兵士の集団」がなぜ一般市民でしかなかった主人公を襲うことになったのか?というさらなる謎をも生み出すことになり、物語の面白さを深めてゆく。

実際、サイボーグとまでは行かなくともハイテクによる兵士の強化は研究開発され既に導入されているものもあるだろうし、その延長線上にあるのが今作におけるサイボーグ兵士だということを考えると、この物語には暗いリアリティがあることに気付かされる。さらに「STEM」の戦略戦術が次第にヒートアップしてゆく様は、現実に学習型AI同士にゲームをさせた結果、最後には非常に非人間的な殲滅戦と化していった、という何かのニュースを思い出させた。映画『アップグレード』は、そういった冷え冷えとした無機的なディストピア感が横溢する作品でもあった。

 

ラテンアメリカ文学アンソロジーを4冊(+1冊)読んだ

思うところあって「ラテンアメリカ文学短編アンソロジー」ばかり集中して読んでいた。思うところ、というか実はただ単に積読が溜まりまくってしまいここは一気呵成に読まにゃ消化できんな、という事情があっただけなのである。

読んだアンソロジーのタイトルは『ラテンアメリカ怪談集』『20世紀ラテンアメリカ短編選』『エバは猫の中―ラテンアメリカ文学アンソロジー』『ラテンアメリカの文学 ラテンアメリカ五人集』の4冊。これと併せてもう一冊、『ボルヘス怪奇譚集』を勢いに任せて読んでしまった。この『ボルヘス怪奇譚集』、ラテンアメリカ文学ではなくて、古今東西の怪奇譚をボルヘスとカサーレスが編んだ抜粋集となっており、それなので記事タイトルも厳密さを考慮して「4冊(+1冊)」とさせてもらった。それではそれぞれをざっくり紹介してみよう。

 

ラテンアメリカ怪談集

ラテンアメリカ怪談集 (河出文庫)

ラテンアメリカ怪談集 (河出文庫)

 

ラテンアメリカ文学というと十年一日の如く「マジックリアリズム」呼ばわりし、便利な言葉なので何も考えることなく無反省に濫用しているオレである。確かにラテンアメリカ文学の多くには「現実の描写の中になんだか妙なモノがニョロッと混じっている」ことが多いんではないか、そしてそれがラテンアメリカ文学の面白さなんじゃないか、とオレは雑に認識して楽しんでいる。そういった部分でいうならこの『ラテンアメリカ怪談集』、普通にラテンアメリカ文学を編纂しても「怪談集」になりそうな所を、さらに「怪談集」と銘打って堂々と奇妙な話ばかり集めている部分で面白い。とはいえ、ホラーチックな怪奇譚という意味での「怪談」というよりも「奇妙な味」「変な話」な作品が多いのが正確だろう。中にはコメディタッチのホラー作もあるぐらいだ。同時にラテンアメリカ文学の面目躍如ともいうべき強烈に幻想的な作品も収められている。そして何より驚いたのは、詩的で美しい文章の作品がとても多い、という事だ。これは新たな発見だった。そんなこんなで実に充実したアンソロジーだった。 

 

■20世紀ラテンアメリカ短篇選

20世紀ラテンアメリカ短篇選 (岩波文庫)

20世紀ラテンアメリカ短篇選 (岩波文庫)

 

こちら『20世紀ラテンアメリカ短篇選』は岩波書店刊ということもあってか収録作全16篇どれもがおそろしくクオリティが高く、またラテンアメリカ作家の有名どころを余すことなく網羅し、さらにテーマ別に作品を分類しているという、この短編集におけるアンソロジストの力量の様を大いに伺わせるアンソロジーとして編集されている。分類された4つのテーマも「他民族」や「暴力的風土」、「都市化による疎外感」や「妄想と幻想」といった、ラテンアメリカ文学の特色といっていい部分を綺麗に区分けして作品選別が成されている部分で秀逸極まりない。これらテーマ分けがあるからこそ短すぎてアンソロジーには収録され難いが鮮烈な印象を残す掌編を幾つも目にすることが出来た。とまあここまで堅苦しく書いたが、これらテーマも横断的なものであり、やはり多くの作品において「現実の描写の中になんだか妙なモノがニョロッと混じっている」ことに変わりはないと思う。だから「文学作品」として読めるそれぞれの作品を「奇妙な味の作品」として気軽に楽しんでもいい筈だ。そしてこのアンソロジーにも、詩的で美しい文章の作品を幾つか目にした。ラテンアメリカ文学はマジカルであると同時にリリカルでもあるのだ。

 

エバは猫の中―ラテンアメリカ文学アンソロジー

エバは猫の中―ラテンアメリカ文学アンソロジー (サンリオ文庫)

エバは猫の中―ラテンアメリカ文学アンソロジー (サンリオ文庫)

 

まずこのアンソロジー、なんとあの「サンリオ文庫」から出版されたものである。だから廃刊書籍であり古本での購入となった(それほど高くなかった)が、なにしろサンリオ文庫ラテンアメリカ文学アンソロジーが出版されていたというのが驚きだった(実はサンリオ文庫マルケスヴォネガット、アーヴィング、ナボコフ、ピンチョンなど錚々たる海外文学を扱っていた恐るべき出版社だったのだ)。さらにこの年でサンリオ文庫を読むことになるとは夢にも思わなかった。さて内容はというとこれがよく言えばバラエティに富み、悪く言えば玉石混交、総じて肩肘張らない自由な「奇妙な味」作品集として楽しむことが出来る。きっと編者も楽しみながら作品チョイスしたであろう気さえする。発行は1987年、ちょうどラテンアメリカ文学が日本でも流行り始めたぐらいの頃だったのかもしれない。収録は16作、2作品が『ラテンアメリカ怪談集』と重複し、短編集『落葉』にも収録のマルケス作品が2作品収められている。ラストの『追い求める男』(フリオ・コルタサル)はジャズ小説になっており、テーマ・分量とも圧巻だろう。

 

ラテンアメリカの文学 ラテンアメリカ五人集

ラテンアメリカの文学 ラテンアメリカ五人集 (集英社文庫)

ラテンアメリカの文学 ラテンアメリカ五人集 (集英社文庫)

 

こちらは単にラテンアメリカ文学なだけではなく「五人集」とまで謳った作品集である。どう五人集なのかというとノーベル賞セルバンテス賞のいずれか、あるいは両方を受賞した作家・詩人で構成されているらしい。面子はバルガス=リョサ、パチェーコ、フエンテスアストゥリアス、パス。で、この作品集というのがこれまで紹介したアンソロジーと違い、殆どの作品でマジックリアリズム的幻想味ではなくド直球の文学作により占められていることだろう。もう冒頭のパチェーコ『砂漠の戦い』からラテンアメリカさんが「文学」と彫られた煉瓦でぶん殴ってくるような作品だし続くバルガス=リョサ『小犬たち』においてはラテンアメリカさんが「文学」と刻まれたエンジニアブーツでキックの連打をかましてくるような作品なのである。オクタビオ・パス作品に至っては【詩】だぞ【詩】(興奮して括弧入りにしてしまった)(そして全然意味が分からなかった)。ちょっとふざけ過ぎたが、ラテンアメリカのそれは欧米文学に散見する意識高い知識人のひ弱な悲哀を一蹴するような、生と死そして感情発露のコントラストの在り方がどこまでも眩いのだ。そこがラテンアメリカ文学の面白味だと思う。なおアンソロジーのラストはアストゥリアスグアテマラ伝説集』。オレこの作品の入った作品集これで3冊目だな。そして実はこの作品格調高すぎて実は苦手……。

 

 ■ボルヘス怪奇譚集

ボルヘス怪奇譚集 (河出文庫)

ボルヘス怪奇譚集 (河出文庫)

 

最後に紹介するのはラテンアメリカ文学ではなくボルヘスとカサーレスが様々な文献からの「短くて途方もない話」ばかりを抄録し一冊にまとめたものだ。それらは古今東西アラビアンナイトの昔から現代まで膨大かつ多岐に渡り、収録された数は数行のものから数ページのものまで92編、編者二人の書痴・書淫の凄まじさがおのずと浮き上がってくるだろう。タイトルは「怪奇譚」とはなっているが多くは不可思議で幻想的な内容のものであり、そして奇怪な運命と逃れられない死にまつわる話ばかりだ。確かに一篇一篇だけ抜き出して読むと木で鼻を括られたような気分にさせられるお話も多いが、これらが一冊に集合することによりボルヘス的な(あるいはカサーレス的な)超現実性を帯びた世界観が垣間見えてくるという仕組みでもある。今風に言うならDJミックスアルバム的な味わいのある作品集ということもできるだろう。