ミッシェル・オスロ監督のアニメーション作品『ディリリとパリの時間旅行』を観た

■ディリリとパリの時間旅行 (監督:ミッシェル・オスロ 2018年フランス・ドイツ・ベルギー映画

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アニメ作品『ディリリとパリの時間旅行』は19世紀末のパリを舞台にした少年少女の冒険譚である。ちなみに日本版タイトルには「時間旅行」とあるが、これは「19世紀末パリに時間旅行したかのような物語」程度の意味で、物語内で時間旅行する訳ではない。

監督は「フランスアニメーション界の巨匠」と呼ばれるミッシェル・オスロ。オレはこの監督のアニメ作品がとても好きで、多分だいたい全部観てるんじゃないかな。オスロ監督作品の特徴は寓話的な物語と優れた色彩・フォルムを兼ね備えたアニメ映像の美しさだ。それはアート的といってもいい。オスロ監督作品に登場するキャラクターにはフラットな色使いが成され、あるいは影絵のように塗りつぶされ、逆に背景画は素晴らしい映像美を誇る、といった形になっている。

そんなオスロ監督の映像美は今回さらに深化している。キャラクターは3D造形だが顔は横から光が当たった程度の最低限のモデリングで、服はフラットで光も影も付けていない。この辺りはこれまでのオスロ監督に見られる様式美を踏襲するが、今作の新機軸はその背景にある。背景の殆ど全てに実際のパリの街並みを写真で撮った映像が使われているのだ。簡単で安易に思われるかもしれないが、これらの写真はパリの朝方に撮られたものばかりらしく、その光線の在り方のせいか奇妙な陰影を漂わせているのだ。それに3Dキャラクターを合成した映像はシュルレアリズム作品におけるコラージュ作品の如き非現実感と美しさとを表出させている。ロケーションはパリ全域におよび、映画を観る事で19世紀パリ観光を楽しむことができるだろう。

物語の在り方も独特だ。まず特筆すべきは「ベル・エポック」と呼ばれた当時のパリに関わりのあったあるとあらゆる文化人、画家や作家や音楽家を始めとする有名人が大挙して登場する事だ。その数は100人を優に数え、ピカソ、モネ、マティスドビュッシー、サティ、オスカー・ワイルドマルセル・プルーストパスツール、マリ・キュリー、リュミエール兄弟ローザ・ルクセンブルグ、と書き出していくときりがない。彼らは物語に直接関わることはないにせよ、当時のパリがいかに文化と芸術の街であったかを高らかに誇示するのだ。全ての登場人物を把握することは出来ないかもしれないが、後でパンフレットを読み「あの人が!この人が!」と驚愕するのもまた楽しみだろう。

物語それ自体はニューカレドニアから来た黒人ハーフの少女ディリリがパリで知り合った好青年オレルと共に街を震撼させる「少女連続誘拐事件」の謎を追う、というもの。これら少年少女冒険譚は低年齢層の視聴に合わせたシナリオで成り立つが、作品に横溢するテーマは現代的な社会性を持ちそれは大人が観ても十分な問題提起を示唆するものであることが出来るだろう。そのテーマの中心はパリの国旗よろしく自由・平等・博愛を謳ったものであり、それは物語で描かれる人種差別や男尊女卑を通して浮き上がってくるものなのだ。

まずディリリは「人間博物館」なる場所で「原始的な生活を営む黒人」を演じる少女として登場する。今考えるなら非常に侮蔑的な見世物でしかないが、実際のディリリが知的で文化的な少女であることがすぐに描かれることになる。ここで人種差別をさらりと否定するのだ。その後ディリリとオレルが追う誘拐団の名は「男性支配団」。その名の通り女性の権利を否定し男性優位をとことん主張する悪逆どもだ。まあ分かり易過ぎてあまりといえばあまりなネーミングだが、このぐらいマヌケなネーミングのほうが団員たちの愚劣さを彷彿させて正しいのかもしれない。しかし、誘拐した女性たちを家畜の如く調教し使役する彼らの姿はマヌケなネーミングどころではないおぞましさを醸し出す。

他にも一見豊かなパリの裏町に住む住民たちの貧しさを描くことにより格差社会を浮かび上がらせるなど、明示される社会問題の在り方からは画像の美麗さやパリの高い文化を誇示するだけの作品にはなっていない。これら「政治的に正しい」描写の数々は最初こそ一瞬シラケさせられたことは確かなのだが、これは別に昨今のいわゆる「PC」に則ったものであるというよりは、実の所「文化と芸術の街パリ」を擁する当時のフランスにあってさえ確固として存在した人種差別や男尊女卑、社会的格差を描いたものであるにすぎないことに気付かされるのだ。

しかし物語は、それら困難な問題を根底に据えながら、あくまでもファンタジーとして明るく美しい夢を描くことに尽力する。それは、夢は望むことによって叶えられるのだ、ということでもあるのだ。オスロ監督がこの作品を書き上げた後にナイジェリアのボコ・ハラムによる女子高生集団拉致事件が起き、フランスでもテロが続出し、さらに大規模な反政府デモも起こっている。これら暗い現実の問題はもちろんアニメのファンタジーで解決できるものである筈はない。しかしアニメのファンタジーは、いつかその暗い現実を乗り越え、明るい未来があるはずだと夢想させることはできるのだ。だからこそ、確固として夢を観続けよう、理想を心に持とう、というのがこの作品のメッセージであるような気がしてならない。 


映画『ディリリとパリの時間旅行』予告編 

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炸裂するタラのハリウッド愛/映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』

■ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド (監督:クエンティン・タランティーノ 2019年アメリカ映画)

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オレはクエンティン・タランティーノ監督作品が相当に好きで、家のTV収納棚の一番目立つ所にタランティーノ作品のDVD・ブルーレイ全作品を並べた特別スペースがあるぐらいである。そんなタランティーノの新作が公開されると聞いたらこれはもう喜び勇んで見ざるを得ないではないか。タイトルは『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』、前作『ヘイトフルエイト』から4年ぶり、9作目の長編作となるのらしい。主演はレオナルド・ディカプリオブラッド・ピットマーゴット・ロビー、他にアル・パチーノやダコタ・ファニングの出演がある。

物語の舞台は60年代ハリウッド、デカプ演じる落ち目のアクションスター/リック・ダルトンとブラピ演じる彼専属スタントマン/クリフ・ブースが主役となる。主演作が減ってやさぐれた日々を送るリックだったが、クリフは鷹揚とした友情で彼を支えてあげていた。そんなある日、リックの隣家に時の寵児、ロマン・ポランスキー監督とその妻である新進女優シャロン・テートマーゴット・ロビー)が引っ越してくる。

物語は全編、実にタランティーノらしい演出で進行してゆく。まず映像面においては60年代ハリウッドの、映画・TVに関するタラのありとあらゆる知識とオタク趣味が開陳され、それはあたかもタイムマシーンでこの時代に旅している様な気分にさせられる。そしてもうひとつ、タラらしい本編と関係あるんだか無いんだかわからないようなダラダラした会話や挿話の数々だ。こうして描かれるリックとクリフの日々は、退屈すらしないもののどこか緩くて漠然としていて、いったいこの物語が何を描こうとしているのかどうにも掴みどころがない。

しかし、これら「緩い」物語の背景に通奏低音のようにかすかに奏でられていくのがシャロン・テートの日々なのである。シャロン・テート、後にハリウッドを恐怖のどん底に落とす猟奇事件の被害者だ。これにより、一見「緩く」進行してゆくこの物語の背後には、常に暗い死の予感が、あたかも細く強靭なピアノ線の様にピンと張り詰め、不快な緊張感を常に漂わせ続けているのだ。いわばシャロン・テートの存在がこの作品の背骨の役割を果たしているということだ。このシャロン・テート事件、並びに事件の中心にいたカルト教団首謀者チャールズ・マンソンについては、知らない方は予習しておいてから映画を観に行った方がいいかもしれない(ただし、何も知らずに観てあとで調べて驚愕するという方法もある、とツイッターである方がおっしゃられていた)。

というわけでこの作品、確かに「タラの60年代ハリウッド愛」は理解できるのだが、なぜシャロン・テートなのか?という部分で釈然としない部分がある。この作品はシャロン・テート事件を描くものではあろうが、それだけを中心に描いた物語でもない。じゃあいったいなんなんだこれは?と思いつつ暫くスクリーンを眺め続けることになる。しかしこれがクライマックスに差し掛かり、これまでの全ての出来事がパチパチパチ!とパズルのピースの如く見事にハマり、ある結末を見せつけられることとなるのだ。オレもここに来て、「これがやりたかったのか!?」と拍手喝采だった。いやーアレはマジびっくらこいたわ。

とはいえ、博覧強記なオタク趣味満開の映像、要領を得ないダラダラした会話、その背後に存在するキリキリと引き絞られた緊張感の在り方など、この作品には実にタラらしい要素が満載だが、逆に、「60年代ハリウッド愛」以外にこの作品ならではの新機軸といったものは見当たらない。この作品は「タランティーノ映画の集大成」といった言い方もされているようだが、と言うよりも、これまでのタラ作品の継ぎはぎ、二番煎じの様な印象すら受ける。オレも長年タラ映画を観続けてそれらの作品をとても愛しているのだが、作品全体の面白さという事に関してはこの作品はその中でも最下位ではないかと思う。

まあ結局、タラも年を取ったということなのだろう。タラ自身「10作映画を撮ったら引退する」という宣言をしていたが、己の技量やら引き出しやらを、ほぼ出し尽くしてしまったという想いがあるのだろう。その中で、自らのフィルモグラフィーの中に「ハリウッド60年代」を描く作品を加えたいと思ったのだろう。確かに完成度的な難はあるにせよ、タラ作品全体を俯瞰するなら、この作品のテーマ自体は「アリ」なのだ。そういった部分で、単体として捉えると茫洋とした作品ではあるにせよ、いつかタラが監督を引退した時に、また新たな評価の在り方が示されるような作品であるような気もするのだ。なにより、オレはこの作品、そんなに嫌いじゃないんだよ。だって、ディカプリオとブラッド・ピットマーゴット・ロビーが出てるってだけでサイコーじゃないか。


タランティーノ監督最新作「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」海外版予告編

 

パゾリーニの『アポロンの地獄』を観た

アポロンの地獄 (監督:ピエロ・パオロ・パゾリーニ 1967年イタリア・モロッコ映画

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パゾリーニってなんだか怖い映画監督だから、映画に興味持ったり近づいたりしない方がいいな」と思ったのは随分昔、中学生頃の事である。当時から映画好きだったオレは「ロードショー」や「スクリーン」といった映画雑誌を購読していたが、その雑誌の中で新作映画として紹介されたパゾリーニの『ソドムの市』のスチール写真があまりに異様だったのだ。他にも、何かのTV番組で紹介されていたパゾリーニの『アラビアンナイト』の映像の一部が、卑猥過ぎて気持ちが悪かったというのもあった。

そんな訳でイタリアの映画監督ピエロ・パオロ・パゾリーニには全く縁の無いまま何の支障もなくこの年まで生き永らえてきたが、この間オムニバス映画作品『ロゴパグ』というのを観て、その中にあったパゾリーニの作品『リコッタ』が、そこそこに面白かったのだ。あれ?これまでずっと抱いていたイメージと違うな?と思えたのだ。そりゃそうだ。10代の頃の感性とズルムケなオッサンである今の感性には大きな隔たりがあるに決まってるしな。

こうしてパゾリーニアレルギーから解放されたオレはパゾリーニ作品をちょっと観てやろうじゃないか、と思ったのである。作品はどれでもよかったが、とりあえず『ソドムの市』は難易度が高そうなので止めて、なんとなくおどろおどろしいタイトルである『アポロンの地獄』を選んでみた。しかもわざわざブルーレイを購入しての視聴である。

アポロンの地獄』は古代ギリシア三大悲劇詩人の一人、ソポクレスによる悲劇『オイディプス王』を原作としている。そう、ジークムント・フロイトの提唱した「エディプス・コンプレックス」という精神分析用語でも有名なあの「オイディプス」である。「エディプス・コンプレックス」は母親を手に入れようと思い父親に対抗心を抱くという、幼児期の抑圧心理を指すが、原典である『オイディプス王』も運命のいたずらにより知らずに父を殺し母とまぐわってしまうオイディプスの姿を描く悲劇なのだ。

とまあその程度の予備知識で観始めたのであるが、結論から言うなら、びっくりするほど素晴らしかった。単なる変態インテリ野郎だと思っていたパゾリーニが、これほどまでに美しく力強い映像を表出させる監督だとは思ってもみなかった。

まず冒頭、いきなり現代のイタリアを舞台にして物語が始まるものだからここでまず驚かされる。現代、とはいえ数十年前のイタリアなのだが、ここでまず生まれたばかりの子に対する父親の憎しみが描かれる。「オイディプス」の物語の発端であり胎芽ということなのだろう。そしてこの”現代のイタリア”は終幕でも登場することになる。

そして物語は遙か太古へと飛ぶ。いよいよオイディプス王の悲劇の始まりと言うわけだ。するとどうだ、古代ギリシアを舞台とした物語であるはずなのに、目の前に広がる情景は古代ギリシアとはどうにも掛け離れた、もっと土俗的で非文明的な世界ではないか。自然の情景にしても建造物にしてもそこに住まう人々の衣装にしても彼らの習俗にしても、「古代ギリシア」を思わすものは一切ない。オレの目にはそれは、大昔に滅び去った南米の王国や、アフリカの忘れ去られた文明のひとつのようにすら映った。それはひたすら土臭く泥臭く、非西洋的なのだ。

調べるとこの作品は、トルコで撮影されたものだという。トルコの荒野とそこに残された遺跡で撮影したのだという。衣装は古代トルコにあっただろうものを模したのだという。ただしそれは古代ギリシアを古代トルコに移し変えたということではなく、非西洋的なロケーションを選んだ結果としての「誰も知らない、架空のどこかの土地」ということなのだろう。そこに暮らす人々の習俗には黒い呪術の臭いがし、彼らが信じるであろう神も死と暴力の染み付いたより原始的な存在なのだ。

そしてオレは、これら全ての情景に、とてつもなく、感銘を受けたのだ。人間の始原に存在したであろうプリミティブな映像の在り方に、非常に心奪われたのだ。それらは荒々しくあると同時に、美しく力強く、胸にざっくり刺さってくる。ある意味人類の持つ原風景とも呼べる情景ではないのかと思わされたのだ。

パゾリーニがなぜこのようなロケーションと映像を選んだのか、パゾリーニの長編作品をはじめて観るオレには分からない。後知恵で言うなら「パゾリーニ自然主義」ということらしいのだが、なぜ自然主義なのかオレには説明できない。しかしただひとつ言える事は、パゾリーニという監督が、このような荒々しくもまた美しい映像を表出させられる高い芸術性を持った監督だったと言うことだけだ。そしてオレはそんなパゾリーニの作品に、たちまち虜となってしまった。

これら始原の風景の中で、「オイディプス王の悲劇」は物語られる。その内容はよく知られる「エディプスコンプレックス」の物語そのままで、それに対してあれこれ注釈するつもりはない。しかし、運命の悪戯により王である父を殺し母を妻として娶ってしまうというこの悲劇は、強い日差しに焼き付いた乾ききった情景の中で描かれるがゆえに、悲劇であるにもかかわらずどこまでも乾ききった情感の在り方を表出させることとなる。そこからは、運命というものにも、その悲劇性にも、達観めいたものを感じざるを得ないのだ。

そして「オイディプス王の悲劇」は終盤、また現代へと還ってくる。そこでは冒頭で赤ん坊だった男の成人した姿が登場することになる。この男が、「オイディプス王の悲劇」そのままの、父と母との狭間における葛藤に引き裂かれた男であろうことは簡単に想像できる。そしてこの男はパゾリーニそのものなのだという。パゾリーニもまた父を憎み母を溺愛した男なのだという。その壮絶な葛藤の中で、パゾリーニは心の中の多くのものを喪いながら、映画監督という自身へ辿り着いたのだろう。しかしそういった自己言及の在り方は副次的なものなのではないか。それよりもこの作品に存在するのは、そういった運命への達観であり、その果ての、悲劇を悲劇とすら感じない乾ききった感情の在り方ではないかと思えたのだ。

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アポロンの地獄 [Blu-ray]

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椎名誠『おなかがすいたハラペコだ。』と『おなかがすいたハラペコだ。②―おかわりもういっぱい』を読んだ

■おなかがすいたハラペコだ。/椎名誠

■おなかがすいたハラペコだ。②―おかわりもういっぱい/椎名誠

おなかがすいたハラペコだ。 おなかがすいたハラペコだ。?―おかわりもういっぱい

例によって取っ付きにくいハードカバー小説を読み疲労してしまったので、口直しという事で軽めの読み物を読むことにした。オレにとって軽めの読み物と言ったら椎名誠である。というわけでエッセイ『おなかがすいたハラペコだ。』と『おなかがすいたハラペコだ。②―おかわりもういっぱい』の2冊を読んでみた。

この2冊は『女性のひろば』という雑誌に掲載されたものを収録している。『おなかがすいたハラペコだ。』は2012年5月号から2015年8月号まで、『②』が2015年9月号から2018年3月号までの連載をまとめたものになっている。ちなみに『女性のひろば』という雑誌、あんまり聞いたことが無いのだが日本共産党中央委員会発行なのらしい。連載は現在も進行中のようだ。

でまあ、内容はというと、椎名さんのいつもの食い物エッセイである。オレにとって椎名さんと言えば食い物と旅行であって、小説は殆ど読んだことが無い。椎名さんのとりあげる食い物はグルメなるものでもなくB級グルメなるなんだかひねこびたものでもない。ひどく雑駁で日常的でいつでも食えるその辺のモンばかりである。あと釣りやキャンプ先でのその場で作る食事とかね。

それとは別に旅行先で食べたあれやこれやも多く取り上げられるが、これもレストランなんぞではなく現地に根差した野趣溢れる食い物や辺境の奥地で口にした面妖な食い物ばかりなのである。要は「腹減った!だから四の五の言わず目の前にあるもんを食う!」という単純で原始的でなおかつ健康的な動機によって書かれているのだ。オレみたいな凡人がスマホのアプリ頼りに情報で頭を一杯にしながら食べに行く料理ではないのだ。

とはいえ、椎名さんも昔っから食い物エッセイを多く書き続けているので、はっきり言うなら内容はマンネリである。とりたてて目を引くようなことも驚くようなことも新機軸となるようなことも書かれていない。おまけに、マンネリどころか1,2巻を通して同じ話が2回3回と飛び出してくる。まあ6年以上続く連載だから話題のダブリはいたしかたないかもしれない。とりあえずファンとしては、「いつもの椎名さんの語りを読むことの心地よさ」だけを楽しみにして読み進められればそれでいいのだ。

同時に、この2冊を読んで思ったのは、「椎名さんも年取ったなあ」ということである。それも当然、1944年生まれで今や孫もいる70半ばのお爺ちゃんだからなあ。なにしろあれだけ食うことに執着の限りを見せていた健啖家の椎名さんが、「もう丼ものは食えない」「揚げ物もいまいち」みたいなことを言っている。そもそも50半ばのオレ自体丼ものも揚げ物も重たいから敬遠してるぐらいだから当然かもしれない。昔ほど旅行も行っていないという。せいぜい仲間と釣りするぐらいなものだそうだ。

そんな食の細くなった椎名さんだが、麺類への執着は未だ捨てきれず、特にそうめんへのこだわりは鬼レベルである。薬味は10種類の中から選択し、ツユ自体も自家製でしかも出汁により3種類は製作しているらしい。これが高じて子供や孫が揃った日のお祝いは「ソーメンパーティー」だというから念がいっている。

それと、今回のエッセイでは珍しく椎名さんが自分の奥さんについて言及している。女性誌での連載ということもあるのだろうが、今や子供たちも成人して巣立ち、再び妻と二人顔付合わせる生活になって思うこともあるのだろう。そしてこの奥さんというのも渡辺一枝という名のエッセイストで、書籍も多く出されているという事を初めて知った。 

おなかがすいたハラペコだ。 (集英社文庫)

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おなかがすいたハラペコだ。

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心の鎧/映画『ロケットマン』

ロケットマン (監督:デクスター・フレッチャー 2019年イギリス・アメリカ映画)

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イギリス出身の世界的ミュージシャン、エルトン・ジョンについては格別な思い入れがる。それはオレが一番最初に体験し熱狂したロックンロール・ミュージックが彼の曲だったからだ。

その曲のタイトルは『ピンボールの魔術師』。ザ・フーのロック・オペラ『トミー』をケン・ラッセル監督が映画化したサントラの中の一曲だ。映画好きで映画音楽好きだった中学生のオレはふとしたことからシングルカットされたその曲を聴き、その打楽器の如く打ち鳴らされるピアノの旋律に度肝を抜かされたのだ。「世の中にはこんな音楽があったのか!?これが、《ロック》ってやつなのか!?」とてつもない高揚感にオレはこの曲をヘッドホンをかけ最大音量で何度も何度も繰り返し聞いた覚えがある。これがオレの「ロック初体験」だった。


エルトン・ジョンElton John/ピンボールの魔術師Pinball Wizard (1976年)

とはいえそこからエルトン・ジョンの大ファンになりました、という訳でもない。他の、もっとヘヴィーなロック・ミュージックを探して聴くようになったからである。だからエルトン・ジョンできちんと聴いていたアルバムは『キャプテン・ファンタスティック』『グッバイ・イエロー・ブリック・ロード』そして『君の歌は僕の歌』の3枚のみである。それでも、オレのロック開眼の切っ掛けとなったエルトン・ジョンというアーチストは、それからもずっと一目置くべきアーチストとして脳裏に刻まれたのだ。

そんなオレだからエルトン・ジョンの伝記映画が製作されると聞いて嬉しくない訳が無いだろう。「エルトン・ジョンの伝記映画」にどれだけの日本の映画ファンが関心を持つのか全く分からないのだが、去年公開され大ヒットを飛ばしたフレディ・マーキュリー/クイーンの伝記映画『ボヘミアン・ラプソディ』の流れを汲んで、「栄光と苦悩のロックスター伝記映画」としてちょっとウケてくれたらいいかな、ということはちょっと思っている。

映画は『ボヘミアン・ラプソディ』撮影間際に解雇されたブライアン・シンガー監督の代行として抜擢されたデクスター・フレッチャーがメガホンをとっており、『キングスマン』シリーズのマシュー・ボーンが製作を担当、同じく『キングスマン』シリーズ主演のタロン・エガートンがエルトン役を務め、歌唱シーンも彼が歌っている。製作総指揮はエルトン本人だ。そして『キングスマン』といえば、第2作『ゴールデン・サークル』において、エルトンが本人役で登場し、怪奇極まりないドタバタを演じていたことを覚えている方も多いであろう。

それにしても同じロックスターの伝記映画ということからか、やはり『ボヘミアン・ラプソディ』とどうしても比べざるを得ない作品ではある。天才的なカリスマと才能を持ったアーチストであり、家族との葛藤があり、本人は繊細で孤独なキャラクターを持ち、魑魅魍魎の蠢く音楽業界で疲弊し、仲間との友情と決裂があり、そしてエルトンもフレディも共にゲイなのである。映画はその辺りを一通り描くが、実際にあった事であるとはいえ、「ロックスターの栄光と孤独」というステレオタイプをなぞった作品にならざるを得なかったのはいたしかたないかもしれない。

ただしエルトンとフレディには決定的に違う一つの点がある。それは、フレディは死して伝説になってしまったこと、対してエルトンは現在も生きて幸福に暮らしているということだ。そしてこの1点において、『ロケットマン』と『ボヘミアン・ラプソディ』は同じ「ロックスターの栄光と孤独」を描きながらも性格の異なる作品として完成することになる。どちらが優れている、ということを言いたいわけではないが、『ボヘミアン~』が死へと至る悲壮さに満ちた作品であったのと比べ、『ロケットマン』には「人生いろいろあったけど今は楽しく生きてます」という肯定感と明るさがある。そしてオレは、人生いろいろあっても、肯定と明るさを持って生き永らえる物語のほうが、やっぱり好きなのだ。

この作品のもう一つの楽しみは、シークエンスごとにいちいち変わってゆくエルトンの奇抜な衣装と奇抜な眼鏡のデザインが見られることだろう。これらはその時代時代のエルトンのファッションをきちんとなぞったものではあるが、なにしろこれら衣装が、奇抜さや派手さを超えて、「なんだかとても変」なのである。ロックスターの煌びやかな衣装、というよりも、「(派手過ぎて)痛い」のである。

これらの「変な衣装」は、エルトンにとって「鎧」だったのに違いない。こういっちゃなんだがエルトンは、ロックミュージシャンというにしては、あまりにルックスが貧相だった。近眼眼鏡でおまけに頭が薄いだなんて、全然ロックスターじゃない。そして同時に、彼はあまりにシャイだったのだと思う。そんな中身も見た目も地味な彼がロックスターを演じ、さらにシャイな自分自身を守るために「鎧」として必須だったのが、あの素っ頓狂なコスチュームだったのだ。冒頭に着て出て来るあの「赤い悪魔」の格好の滑稽さと言ったらない。そして彼はこうした「ド派手なロックスター」の滑稽な鎧の中でどんどん空っぽになってゆく。その空虚を埋め合わせる手段として手にしたのが酒であったりドラッグであったりしたわけなのだ。

この物語から無理矢理教訓的なテーマを掘り出すとしたら、それは「肥大化したペルソナに疎外された自己の救出」ということだろう。「自分とは何であるのか」という命題は、それは社会/共同体における部分と私的な個人における部分で齟齬が生じ、あるいは対立するものとして存在することがある。その乖離の中で悶え苦しむエルトンの姿は、一般的な現代人の中にも存在する病の姿でありはしないか。その葛藤の中にあるエルトンが旧知の友バーニー・トーピンとの友情によって救われる、というのがこの物語であり、そして、救いのある物語だからこそ、この作品は美しく完結してゆくのだ。未来は、明るい方がいい。 


『ロケットマン』本予告

ロケットマン(オリジナル・サウンドトラック)

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キャプテン・ファンタスティック+3(紙ジャケット仕様)

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黄昏のレンガ路(グッバイ・イエロー・ブリック・ロード)(紙ジャケット仕様)

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僕の歌は君の歌(紙ジャケット仕様)

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