インド映画『シークレット・スーパースター』を観た

シークレット・スーパースター (監督:アドベイト・チャンダン 2017年インド映画)

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インド映画『シークレット・スーパースター』はシンガーになる夢を持つ少女とその夢を阻む暴力的な父親との確執を描く人間ドラマだ。粗筋はこんな感じ:

インド最大の音楽賞のステージで歌うことを夢見る14歳の少女インシアだったが、厳格な父親から現実味のない夢だと大反対され、歌うことを禁じられてしまう。それでも歌をあきらめられないインシアは、顔を隠して歌った動画をこっそりと動画サイトにアップ。ネットを通じて彼女の歌声は大人気を博す。やがてインシアは、落ち目の音楽プロデューサー、シャクティ・クマールと出会うこととなるが……。(映画.com) 

 主演のインシアに『ダンガル きっと、つよくなる』のザイラー・ワシーム、怪しい音楽プロデューサーに『きっと、うまくいく』『PK』『ダンガル きっと、つよくなる』のアーミル・カーン。さらにインシアの母親ナズマを『バジュランギおじさんと、小さな迷子』で主人公少女の母親役を演じたメヘル・ヴィジュ、父親役をアヌラーグ・カシャヴ監督の問題作『Black Friday』に出演したラージ・アルジュンが演じる。

この作品は幾つかの要素を含んでいる。それはまず「自分の夢を叶えたい」という少女の願いだ。もうひとつはそんな彼女の願いを「女のくせに」と一顧だにしない父親の無関心と無理解、その大元となる強烈な男尊女卑社会の在り方だ。そしてそんな中、娘の願いをなんとかして叶えてあげたいと祈る母親の愛だ。ここには現代的な価値観の中自分の未来をなんとしても掴み取ろうと奮戦する新しい世代と、旧弊な価値観に胡坐をかき己の男権的で強権的な支配の構造に疑問一つ抱かない古い世代との断絶がある。

インド映画に於いて一枚岩の様に頑固な父権社会と新しい考えを持つ若者との対立を描いた作品は幾つもある。それは『DDLJ』の如く結婚相手の父親の頑迷さであったり『家族の四季』のように強烈な父権支配の中における家族のドラマを描いた作品であったりする。しかし物語はたいてい父親と若者との和睦によって完結し、父権の否定やそれを乗り越える所には至らない。その中で例外的に『Udaan』(監督:ヴィクラマディティヤ・モトワーニー 2010年インド映画)のみ、徹底的に父親の否定を描くが、逆にこれ以外に父権の否定を描いたインド映画をオレは知らない(探せばあるんだろうが)。

とはいえこれらは(父親という)男と(息子という)男の、男と男の睨み合いを描いたものである。そしてその「息子という」男はいつか「父親という」男になるのだが、物語が和睦によって完結する以上批判は存在せず単なる現状維持の世代交代があるだけということになってしまう。男と男はなぜ和睦するのか。それは強固な家族制度を維持する為である。家族主義を基本とするインドでは解体した家族の孤独なぞ世界で最もおぞましいものであるのかもしれない。

しかしこれらの物語から零れ落ちているものがひとつある。それは「女」の存在である。

映画『シークレット・スーパースター』において、主人公少女インシアも、その母ナズマも、家長であるファルークによって、「女だから」というだけで全てを否定される。インシアは「女だから」自らの夢を追うことを許されず、長子として生まれなかったことを疎まれ、挙句に見知らぬ男と結婚させられそうになる。ナズマに至っては「女だから」どこまでもファルークへの従属を強いられ、ファルークの意思に反することをするなら徹底的な暴力が振るわれる。それは、「女だから」そのように扱っても構わない、という旧弊で頑迷な父権社会・男権社会の習わしだからだ。家父長制において女は男にかしずき隷属し常に男の意のままに生きなければならないからだ。

物語はこれら太古の恐竜の如く生き残る醜悪な父権制の中で否定され翻弄され続ける主人公が、どのように生きる希望を掴み取ってゆくのかが大きなテーマとなる。そしてその希望とは、シンガーになるという夢であり、その夢を叶えるための第一段階がYouTubeだった、というのがこの物語の面白いところだ。家族主義という「囲い込み」の中で不幸を背負った主人公が、インターネットという開いた世界で希望の切っ掛けを掴む。そこには自分を発見し認めてくれる者がいる、というだけではなく、家族主義というヒエラルキーから脱した、各々が等価な世界が広がっていたのだ。そこには新しい価値観があり、多くの出会いがある。そしてそのネット世界の中でインシアが出会ったのが、落ち目の音楽プロディーサー、シャクティ・クマールだったのである。

アーミル・カーン演じるシャクティ・クマールが登場し調子っぱずれの怪気炎を上げ始める所からこの映画は俄然ドライブが掛かり始める。「父権制の不条理」や「女性の虐待」といったシリアスな問題提起だけでは真摯でありつつもシビアな社会派ドラマで終わってしまったであろう部分を、アーミル・カーンの登場でいきなりファンタジックなエンターティメント作品に捻じ伏せてゆくのである。それだけアーミル演じるシャクティ・クマールは怪奇極まりない男なのだ。

実の所シャクティもまた傲岸不遜なマッチョ・キャラでしかない。トラブルメーカーである彼はある種の社会病理者であり社会不適合者であるとも言える。しかし音楽業界という魑魅魍魎の蠢く世界で、優れた才能と権勢を持って生きていたからこそ彼のイビツさは黙認されていたのだ。しかしあまり好き勝手やり過ぎて今や干される寸前だ。そんな彼が一発逆転を狙い発掘した才能がインシアだったのである。

シャクティのマッチョ・キャラはそれ自体が男権社会のカリカチュアでありパロディとも言える。しかしファルークが男権社会の負の部分を体現していたのに対し、シャクティは「下品だが頼りになるおっさん」という、しょーもないことはしょーもないが巧く活用すれば役に立つこともある「男の甲斐性」を見せてくれるのである。陰鬱なファルークの「父権制」に対して調子っぱずれなシャクティの「男の甲斐性」をぶつけることにより、「男権的なるもの」が「対消滅」を起こす、というのがこの物語の構造なのだ。

こうしてダメな男たちの物語は「対消滅」を起こして終わる。一方は唾棄すべきものとして、一方はかつて後見人であった素晴らしい人として。男たちの物語が終わった後に、女であるインシアの、人生という名の物語が始まる。それは一人の、何にも束縛されない個人の物語だ。かつて彼女は”秘密の”スーパースターだった。しかしこれからは、誰にも何にも臆することの無い、彼女自身の人生のスーパースターとして生きることだろう。


映画「シークレット・スーパースター」日本版予告編

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僕と怪獣と屋上で

母の葬儀の後、弟と一緒に遺品整理をしていた。2015年の冬の事だ。その時出てきたのがこれらの写真だった。子供時代のオレが、着ぐるみの怪獣たちと一緒に映っている写真だ。中央の、熊の絵の鉢巻きをして、不安そうな顔で明後日の方角を観ているのが子供の頃のオレだ。子供の頃、とは言っても、幾つぐらいで撮った写真なのか正確な所は憶えていない。4歳なのか、5歳なのか、6歳なのか、はたまた7歳なのか。まあ、その位の年の写真という事だ。

場所は、当時地元で一番大きなデパート、その名も「高林デパート」の屋上だ。ちなみに「地元」というのはオレの生まれ育った北海道の、稚内という街だ。知ってる方も多いと思うが、稚内というのは日本の一番北の街だ。海の向こうにはロシア領のサハリンが見える。要するに限りなくロシアに近い土地なのだ。サハリンは第2次世界大戦前まではその半分が日本の領土で、樺太と呼ばれていた。それが終戦間際に当時のソ連が侵攻し占領し自国の領土とした。ロシアに限りなく近い土地である稚内には自衛隊基地があり、ロシアへの軍事的警戒のためだろう、レーダーサイトまである。オレが子供の頃まではアメリカ軍も駐留していた。

 

多分この「高林デパート」の屋上で、子供たちを集めて怪獣の着ぐるみショーとかいうのをやっていたのだろう。地元で一番大きなデパートとは言っても、なにしろ北海道の僻地にあるデパートなので、4階建てぐらいの建物だったと思う。しかし当時地元では、4階建て以上の建物というのは、このデパートと、あと市役所と市立病院ぐらいだったのではないか。確かエレベーターが設置された商業施設もここが一番早かっただろう。それだけまあ、地元では一番のデパートだった。多分、僻地とはいえ、当時の高度経済成長で、地元が活気づいていた頃でもあったのだろう。

そして僻地に住む小さな子供にとっては、このデパートに行く事は大きな楽しみの一つだった。それはまず、玩具コーナーの充実だ。そして最上階にある、レストランの充実だ。子供の頃は家族でこのレストランに行って、ラーメンとソフトクリームを食べるのが一番の楽しみだった。家族でデパートに出掛けるというのは、それはある種、田舎暮らししか知らない人間にとっての、豊かな生活のステータスだった。そんな高林デパートではあったが、オレが成人し地元を離れた後に倒産してしまった。話では店員に予告なくデパートを閉めたのらしく、何も知らされず出勤した店員たちがシャッターの開かない店の前でパニックになっていたという。

出てきた怪獣の着ぐるみの名は、円谷特撮TV『ウルトラマン』に登場したネロンガと、 ギャンゴと、そしてこれは怪獣ではないのだが、『キャプテン・ウルトラ』に登場したハックという名のロボットの3体だった。オレはなにしろリアルタイムで『ウルトラマン』をTVで観ていた子供で、そしてこの怪獣というヤツが大好きだった。あまりに怪獣が好き過ぎて、小学校に上がる前に「怪獣」という漢字を覚え、それをノートに落書きしていたぐらいだった。だから当時も、「そんな怪獣に会える!」と喜び勇んでいった筈なのだが、実際出会った怪獣の着ぐるみが怖くなり、泣き出してしまったのだという。写真をよく見ると、確かにオレの顔は、今にも泣き出しそうな、微妙に歪んだ表情を浮かべている。

しかしオレは実ははっきりと覚えているのだが、「怖い」という感情とはちょっと違っていた。オレがそこで出会った怪獣の着ぐるみは、すっかりヨレヨレになり、ブカブカな上に皺だらけで、あちこちには修繕した跡まであり、TVで観た彼らとは何か別のものに成り下がっていたのだ。おまけに、着ぐるみの素材なのだろう、ウレタンか何かの、化学製品の臭いがとてつもなくきつく、その臭いに、気持ち悪くなってしまったのだ。そんな「気持ちの悪い何か」が、オレの傍によってきて、頭を撫でたり肩を抱いてきたりしてきたものだから、オレは耐えられなくなってしまったのだ。

ところで、この写真を撮ったのは、オレの母方の叔父になる人だった。確か当時はまだ二十歳そこそこだったのではないかと思う。叔父は、母の実家である函館のさらに奥地の田舎に住んでいたが、あまりの田舎さに嫌気が差し、そこよりは多少都会ではある稚内に住む姉(=オレの母)を頼ってやってきていたのだ。そしてその叔父はまだ子供のオレを大いに可愛がってくれていた。映画や漫画の好きだった叔父は、このオレをいつも映画館に連れ出してくれたし、漫画雑誌を買い与えてくれていた。絵をかくのも好きで、部屋でいつも訳の分からない絵を描いていた(正確には、障子に書いていた)。オレの今の漫画や映画の趣味の幾ばくかは、この人の影響が大きいだろう。

叔父は中卒で、手に職を着けようと理容師の見習いをしていたのだが、実験台としてよくオレの髪を切っていて、そしていつも虎刈りにされていた。「虎刈り」というのは虎の模様の様に髪の毛の切り方がまばらで不揃いになっている事を言う。オレはこの叔父の務める床屋にもよく通っていて、ここで終始漫画雑誌に読み耽っていた。

その叔父が孤独死していたのを知らされたのは去年の事だった。叔父は数十年前から東京に移り住んでおり、オレが上京した時もとても世話になっていた。だがこの頃から叔父には人嫌いの性向が出始め、その後の引っ越し先もオレにも血縁の者にも知らせず、叔父の母(=オレの婆ちゃん)が亡くなった時も、誰一人として連絡先が分からず結局葬式に来なかったほどだった。上京してから会った叔父は、いつもどこかで学歴の低さと、学歴が低いばかりにあまんじなければならない職業の安い賃金に溜息をもらしていた。コツコツ貯めた金でなんとか念願だったバーを開店したが、バブル経済時期だったこともあって最初はそこそこに流行ったものの、その後客足が途絶えいつの間にか引き払ってしまっていた。そしてその後叔父は行方不明になっていたのだ。

孤独死の知らせは警察から母方の伯父に行き、DNA鑑定の依頼がまず最初だった。死の直前まで伯父がどこでどんな暮らしをしていたのかオレは知らない。そしてオレは、この怪獣たちとオレの写っている写真を見ながら思ったのだ。この写真を持っていた母も、この写真を撮った叔父ももうこの世におらず、であるなら、この写真の情景を記憶しているのは、この怪獣たちを記憶しているのは、もうこの世でオレだけなのではないかと。

いや、確かにこのデパートの屋上にやってきていた何人もの子供や親たちの中には、まだ覚えている人もいるのかもしれない。しかしオレが言いたいのはそうじゃなくて、このオレと情報を共有していた人間が誰もいなくなるということなのだ。年を取るというのはこういうことでもあるのか、と思ったのだ。高林デパートも、高林デパートの屋上の怪獣も、オレがそこで泣いたことも、そこでオレの写真を撮った叔父も、彼がどんな人間だったかも、知っている人間が誰もいなくなってしまう。確かに時の流れというのはそういうものなのかもしれない。他愛の無いあれやこれやの記憶など、忘れ去られるのが常であろうし、覚えていたからと言って何の役に立つというものでも無い。ただ、それがゼロになってしまう、虚無に還ってしまうというのが、なんだか侘びしく感じて仕方ないのだ。

 だから、オレは思ったのだ。こうしてブログにして、あの当時の事を何がしかの文章にしたため残しておくのなら、それを読んでくれる人が何人かはいてくれるだろうと。そして数分でも、数時間でも、その人の記憶の中で、これらの出来事が生き返るのだろうと。あの日、オレと怪獣はデパートの屋上にいた。天気のいい日だった。デパートのラーメンとソフトクリームは絶品だった。あの頃、家族そろってデパートに行くのがとても楽しみだった。今はいない父親がいて、母親もいた。多分オレは、幸福だった。そんな時代が、オレにもあったんだよ。

今度は中生代だッ!/『リアルサイズ古生物図鑑 中生代編』

■リアルサイズ古生物図鑑 中生代編/土屋健

古生物のサイズが実感できる!  リアルサイズ古生物図鑑 中生代編

大昔の地球には今は絶滅して見る事の出来ない膨大な種類の生物が生きていましたが、それらの大きさってどんなものだったんでしょうか。それらを図鑑で見るときに、10センチだとか1メートルだとか10メートルだとかの記載はありますが、数字だけだとスケール感がピンと来ないもの。

この『リアルサイズ古生物図鑑』は、様々な古生物をCGで復元し、それを現代の身近な光景やシチュエーションの中に置くことによって、それら生物のリアルなスケール感を実感してもらいたい、というコンセプトから生み出された図鑑です。確かにこれまで、例えば人間の身長や車両やビルの大きさと恐竜などの古生物を並べてその大きさを表した図説はありましたが、この書籍の面白さは、とことんシチュエーションのありかたにこだわり、なおかつ、非常にユーモラスである、といった点にあります。さらに、古生物たちの説明がまた、徹底的にユーモラスで実に親しみやすいんですよ。

例えば台所の食材の中に紛れ込んでしまった古生物や、居間に訪れてノホホンとしている古生物、律儀に青信号で横断歩道を渡る古生物など、「あれ?なんでこんなところに君がいるの?」という可笑しなシチュエーションを持ってきて、そこから生命を持って存在する古生物の生き生きとした姿を描き出そうとしているのがこの書籍なのですね。

今作は「中生代編」と銘打たれていますが、実はこれ以前に「古生代編」というのが出版されており、結構話題になっていたので覚えている方もいるかもしれません。この「古生代編」では先カンブリア時代末のエディアカラ期(約6億3500万‐約5億4100万年前)から古生代(約5億4200万 - 約2億5100万年前)まで、実に3億8000万年分の生命の歴史を辿っており、古生代ならではのまるでエヴァンゲリオン使徒みたいな珍奇な生物たちがオンパレードで登場し、大変面白く読むことが出来ました。

そしてこの「中生代編」で取り上げられているのは三畳紀ジュラ紀白亜紀の3地質年代、約2億5217万年前から約6600万年前を生きた生物から100種類以上をピックアップして登場させています。そしてこの「中生代」といえばなんといっても恐竜たちが栄華を誇った時代!映画『ジュラシックパーク』でもお馴染みなあんな恐竜やこんな恐竜が大挙して登場します!(ところでご存知の方も多いかと思いますが映画『ジュラシックパーク』に登場する恐竜はジュラ紀ではなく白亜紀の恐竜がメインなんですけどね)

まず最初に驚いたのは(特に白亜紀の)恐竜たちが、思ったほど大きくない。いや、確かに大きいっちゃあ大きいんです。史上最大級の恐竜と言われるパタゴティアンは37メートル・体重69トンあったとされていますが、これはいわゆる首長竜(正確には恐竜類 竜盤類 竜脚類)の首の長さがあったればこそで、あの有名なティランノサウルスで12メートル、これ実は大型バス程度の大きさなんですね。でもなんだかもっと大きいんじゃないか、と思っていたんですよ。

実はこの勘違いって、やはり例の『ジュラシックパーク』ならびに『ジュラシックワールド』の観すぎみたいなんですよね。本書でも触れられていますが、実はあれら映画の恐竜の大きさって、モノによってはちょっと「盛ってる」らしいんですよ。とはいえ、別に「映画は正確じゃない!」ってことを言いたいわけではなく、それはそれとして、「ホントはこのぐらいの大きさだったのかー」というのを知ることができたのは、やはりこの図鑑の図説の在り方のお陰ですよね(あと映画で「ヴェロキラプトル(通称ラプトル)」と呼ばれる恐竜は実は「ラプトル」ではなく「ディノニクス」という恐竜がモデルであるのらしい)。

逆に、水棲・魚類型恐竜の大きさは、ちょっと恐怖を感じるぐらいでした。沼から半身を出している全長15メートルのスピノサウルス、水族館の水槽を泳ぐ全長8メートルの最古の鮫クレトキシリナ、プールを泳ぐ全長16.5メートルのリードシクティクス、これらは説明がどんなにユーモラスでもその画像は「うッ・・・・・・コワイ」と思わざるをえませんでした。なんなんでしょうねこの水棲恐竜のコワサっていうのは。

もうひとつ面白かったのは「羽毛を持つ恐竜」の画像が多く挙げられていたことですね。腕の部分に羽の生えている二足歩行恐竜の姿は今までのイメージを全く覆されてしまいました。しかし「羽毛を持つ恐竜」の存在は今では通説ですが、かといって全ての恐竜にあったというわけではない。この辺どうなんだろうな、と思ってたんですが、この図鑑ではティランノサウルスには羽毛は描かれていない。実はティランノサウルス、一時羽毛恐竜説があったんですがその後覆されて鱗のある恐竜に戻っている。この辺りの最新学説が実はきちんと反映されていて、そういった検証や区別のありかたにさすが図鑑と銘打つだけのことがあるなあと思わされました。

古生物のサイズが実感できる!  リアルサイズ古生物図鑑 古生代編

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ハゲ3-ハゲ1=ハゲ2/映画『ワイルド・スピード/スーパーコンボ』

■ワイルド・スピード/スーパーコンボ (監督:デヴィッド・リーチ 2019年アメリカ映画)

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銃と筋肉とエンジンがブンブン唸りまくる大人気シリーズ『ワイルド・スピード』のスピンアウト作品『ワイルド・スピード/スーパーコンボ』が公開されたので早速観に行ったのである。これまでよりも輪をかけて脳ミソの存在を忘れ去った映画なんだろうな、と予告編を観て思ってたので、こちらも脳ミソの存在を忘れ去って観ることにした。

今作『スーパーコンボ』、どんなふうにスピンオフかというとシリーズの主役である「脂っぽいハゲ(ドミニク/ ヴィン・ディーゼル)」が登場せず「筋肉パンパンハゲ(ホブス/ドウェイン・ジョンソン)」と「陰気な顔のハゲ(ショウ/ジェイソン・ステイサム)」の2ハゲが中心となって暴れまくる、というお話になっている。で、このパンパンハゲと陰気顔ハゲの仲が相当悪い、というのが今作のポイントとなる。

お話は「人類を滅亡させることのできる新型ウィルス兵器を自らに注入して失踪したMI6の女性エージェント、ハッティ(ヴァネッサ・カービー)」の捜索・保護をパンパンと陰気顔が政府から依頼される、というもの。しかしそのウィルスを製造したテロ組織もまたハッティを確保するため、ワイスピシリーズ最強のサイボーグ戦士ブリクストン(イドリス・エルバ)を送り込む。さらにハッティが陰気顔の妹だということも判明し事態は更にメチャクチャに・・・・・・・といったもの。 

監督は『ジョン・ウィック (※クレジット無し)』 『アトミック・ブロンド』『デッドプール2』のデヴィッド・リーチ。んー、悪くは無いんだがちょっとクドイとこあるかもな。

まず中盤までの感想としては、想定内とはいえシナリオは相当ヒドイなあ、と言うことと、ドウェイン・ジョンソンジェイソン・ステイサムが出演してなきゃ退屈はしないがよくあるような平凡なアクション映画にしかなっていなかっただろうなあ、ということだった。主人公二人が仲が悪いという設定は、延々と続く罵倒合戦で見せられることになるが、そこで絵が止まってしまうために段々うんざりさせられる。サイボーグ戦士ブリクストンは恐ろしいほどに強敵なのだが、例によってコイツもまた脳ミソの存在を忘れ去ったようなキャラなので、凄みと言った点においては欠けており、主人公二人を取り逃がすたびに単なる間抜けに見えてしまう。

それと何十時間だかの時限で発症する新型ウィルス兵器というのも苦しい設定で、即効性の無い殺人ウィルスだと兵器として使い勝手が悪そうだし、それまでピンピンして他に感染もしないとかって何の意味がある兵器なんだと思ってしまう。これ、プログラミングによって発症や感染方法をコントロールできる殺人ナノマシンってことのほうが説得力あったんじゃないかな。そうであれば「ウィルス分離除去作業」なるものも理解しやすいしね。意外と最初の脚本はそうだったのかもしれない。

とはいえ、こういった文句は中盤まで。これが後半、銃撃戦や肉弾戦やカーチェイスや大規模爆破のムチャクチャさがガンガンガン!とヒートアップしてゆくにつれ、「おおおおこれこそワイスピ!」とばかりにすっかり画面に釘付けになってしまう。いやもうこのムチャというかバカというか思いついても普通やらない、というアクションの楽しさは、やはりドウェイン・ジョンソンジェイソン・ステイサムあったればこそ、やつら大御所ならではの安心感だ。「こいつらなら無理なくやるよね」と思えてしまうのだ。

シナリオのインチキ振りとドタバタさ加減は最後まで足を引っ張っていたが(テロ組織でウィルス除去やっちゃえば済んだ話じゃん?指紋認証式火器のプログラム遠隔操作ってなによ?)これら全ては力技ともいえる馬鹿馬鹿しいアクションで全てチャラにできる。そんなこと言ってたら戦闘ヘリをアレでこんなふうにできるのか?になっちゃうのだが、いや絵面が面白いんだからそれでいいじゃん?と強引に思わせてくれるのだ。最後のロケーションにしても、タイムリミット迫ってんのになにを悠長な、と思えないことも無いが、そこで一発熱い家族愛を見せ付けてくれるもんだからウンウンいいよ!いいんだよ!と無理矢理納得させられるのだ。

そんな按配で大概乱暴なお話ではあったが、後半における物量の凄まじさというか金の掛け方で溜飲の下がった映画ではあった。ワイスピのマーチャンダイズ作品としてはこのぐらいが妥当だろうし、ワイスピって実のところこのラインのレベルで出来上がっているシリーズだしな。まあまあ楽しかったよ。


映画『ワイルド・スピード/スーパーコンボ』海外版予告編 

 

未来のパリ、過去のパリ/バンドデシネ『パリ再訪』

■パリ再訪/フランソワ・スクイテン、ブノワ・ペータース 

パリ再訪 (ビッグコミックススペシャル)

フランソワ・スクイテン+ブノワ・ペータースによる大著『闇の国々』全4巻の刊行は日本のバンドデシネ出版において画期的な出来事だったのではないかと思う。あのデカい・厚い・重い・(価格が)高い書籍を、しかも全4巻。しかしその内容自体も書籍の重厚さに比例した深遠かつ広大無辺な世界を描ききっていたのだ。

闇の国々』、それはこの世界とは違う異次元の世界において展開される謎に満ちた無窮の建築物の数々とそれに翻弄される人間たちとのドラマである。そして鋼鉄と砂とガラスで構築されたボルヘス的な迷宮世界の只中に読者を幽閉する幻想譚である。精緻に描かれたそれら建築物の威容にただただ圧倒させられる幾何学的なファンタジー、それが『闇の国々』であった。

そのスクイテン+ペータースによる新刊が発売された。タイトルは『パリ再訪』、未来世界を舞台にしたSF物語だ。

2156年。地球と永らく断絶したスペースコロニーで主人公カリンは生まれ育っていた。しかしカリンは老人ばかりの住む閉鎖的なスペースコロニーを忌み嫌っており、数十年ぶりとなる地球探査飛行への参加は彼女にとって渡りに船だった。そしてカリンには地球探査参加のもうひとつの理由があった。それは彼女の出生に関わる土地、彼女の亡き父母の出会った街、パリへの憧れ。こうして地球に降り立ったカリンを待っていたのは、彼女の期待を裏切る変貌しきった世界だったのだ。

この作品でもまず目を奪われるのはスクイテンの描く壮大で異様な数々の建築物であり変容した未来世界の光景である。実際スクイテンは建築デザイナーとしても活躍しており、パリ地下鉄駅や愛知万博ベルギー館のデザインも手掛けるが、その彼のセンスが縦横無尽に生かされた異質な世界が『パリ再訪』では描かれることになる。

そしてペータースが原作を担うその物語は『闇の国々』を髣髴させる迷宮的なミステリアスさに満ちている。主人公カリンはエキセントリックな性格を擁し行動は予測不可能で精神的にも不安定であり、まるで宿命の如く未来の地球と未来のパリに翻弄されてゆく。カリンは憧れた過去のパリ、実際に目にした未来のパリ、この二つに引き裂かれてゆくのだ。

この物語における未来世界のパリは現実視点からは幻想世界であり、同時に、未来世界のパリにおいて現代のパリは幻想世界なのだ。即ち、二重に架空であり幻想であるという事だ。未来にも過去にも自分の居場所が無く、それによりカリンは混乱し自己同一性を保てなくなる。自分の生きる場所、居るべき場所はどこであるべきなのか。こうしてカリンの物語は錯綜してゆく。

未来のパリと過去のパリが重なり合うこの物語には、古い歴史を持ちその歴史に培われた美しさを兼ね備えたパリが、未来に向けて変化し変貌してゆかなければならないことへのジレンマが存在するのだろう。それは自らのルーツを過去のパリに持ちそれに憧れ続けてきたカリンが、結局は今自分がいる未来の世界に生きる意味を見出すという物語に通じている。「希望は過去にしかない」と言ったのは19世紀フランスの小説家バルザックだが、しかし「過去にしかない希望」を手放すことで得たのがカリンにとっての未来だったのだ。

パリ再訪 (ビッグコミックススペシャル)

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■フランソワ・スクイテン、ブノワ・ペータース作品とそのレヴュー一覧 

◎『闇の国々

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◎『闇の国々II』

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◎『闇の国々III』

闇の国々III

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◎『闇の国々IV』 

闇の国々IV

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◎『ラ・ドゥース』 

ラ・ドゥース (ShoPro Books)

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