ゴダールのSF作品『アルファヴィル』を観た

アルファヴィル (監督:ジャン=リュック・ゴダール 1965年フランス、イタリア映画)

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ゴダールのSF作品『アルファヴィル』を観た

オレはSFが好きである。オレにとって小説といえばSF小説の事だし、映画でもまず好きなのはSFジャンルだ。オレの性格もSFだと言っていい。セコくて(S)フヌけた(F)野郎なのである。まあそんなことはどうでもいい。時間も空間も超越し人や社会が意味と価値観を変容させこれまで誰も見たことの無い生命が息づきこれまで誰も見たことが無い世界が広がる、そんな、想像力の翼を限界まではためかせた物語が好きなのである。

そんなSF好きのオレだが、フランス映画界の鬼才ジャン=リュック・ゴダールのSF作品『アルファヴィル』はまだ観ていなかった。だってなんたってゴダールだぜ。「めんどくせえなあ……」と思う訳である。「訳分かねんだろうなあ……」と思う訳なんである。なにしろオレにはゴダールがよく分からない。シネフィルなる方々になぜもてはやされるのかが分からない。「ここがこう凄い」と説明されてもそれがどう凄いのかすら分からない。あまりにも分からなさ過ぎて自分の知性とか理解力とか知能指数まで疑ってしまい「へえへえ分かんなくてすいませんねえ」などと卑屈に顔を歪めてしまう始末だ。

とはいえSF好きのオレとしては映画『アルファヴィル』を無視し続けるわけにもいかない。いかに面倒臭かろうがつまんなさそうだろうが相手が鬼門のゴダールだろうがSFである以上これは観なければいけないのである。それがオレの務めであり宿命でありそして一つの試練なのである。しかもつい最近2000円代でブルーレイが発売され手に入り易くなってしまったのである。もうこれはSFの神がオレに「グダグダ言ってないでいい加減観ろや」と言っているのに等しい。という訳でオレは覚悟を決めわざわざブルーレイを購入してゴダール映画『アルファヴィル』に挑戦することにしたのだ。

◆銀河系星雲都市アルファヴィル

アルファヴィル』はいわば「スパイSF」とでもいったような物語である。舞台は銀河系星雲都市アルファヴィル。ある日ここに秘密諜報員レミー・コーションが潜入する。彼の任務は行方不明の仲間を捜索すること、亡命科学者ブラウンを救出ないし抹殺すること。そんなレミーアルファヴィルで目にしたのは人工知能アルファ60に支配され人間的感情を剥奪された住民たちの姿だった。

あろうことか、ある意味分かり易いSF映画であり、分かり易いゴダール作品だった。「機械に支配され感情を失った人間」といったSFテーマは特に珍しいものではなく、「はいはい文明批判文明批判」と言ってしまえばそれまでの作品ではある。しかしだ。そういった物語性はあくまで皮相的なものであり、監督自身が描きたかったものが別にあるのであろうことは、映画の「見せ方」を注視するならおのずと伝わってくる。

まず面白いのは、この作品ではSF的セットやSF的ガジェットを一切使っていない、ということだ。「銀河系星雲都市アルファヴィル」とは言いつつ、単にパリの街でロケーションしているだけである。そもそもレミーが「外惑星」からやってきた方法というのは、その辺のよくある自動車で道路を走って、である。宇宙船でも転送装置でもなんでもない。にもかかわらず、「外惑星からやってきた」と言われるならそのように認識してしまうし、同様に、単なるパリの街も「銀河系星雲都市アルファヴィル」と言われるならそのような未来架空都市のように認識させられてしまうのである。

これは、想像力をちょっと刺激することにより「”見えているもの”を”見えているものとは別のもの”に思わせてしまう」という事なのだろう。例えばタルコフスキーの『ストーカー』では単なる野原や廃坑を、「そこに得体の知れない力場の働く危険地帯」と思わせる事により、異常な世界の緊張感を生み出せさていた。ジョン・セイルズ監督によるインディー作品『ブラザー・フロム・アナザー・プラネット』では、一人の普通の黒人を「宇宙人」、彼を追う白人を「宇宙ハンター」と呼称させることで、殆どSFセットを使っていないにもかかわらず堂々たるSF作品として完成させていた。

言うなればこれは、子供がよくやる「見とり遊び」ということだ。ちょっとした想像力で、公園の遊具が敵性宇宙人の放ったトラップに成り得るし、空き地の物置は科学の粋を集めたウルトラ秘密基地に成り得る。映画『アルファヴィル』にはこういった「想像力の遊び」がある。

アメリカ的ハードボイルド世界とサイエンス・フィクション

もうひとつ面白かったのはこの作品が非常にアメリカ的なハードボイルド・テイストを踏襲しているということだ。それはまず主役である秘密諜報員レミー・コーションのキャラクターだ。中折れ棒にロングコート、苦み走った表情に虚無的な台詞、暴力的な性格と容易く撃ちまくる銃、そして彼を取り巻く謎の美女。これらは面白いくらいハードボイルド探偵の紋切り型をなぞっているではないか。「ハードボイルド」はアーネスト・ヘミングウェイの系譜を継ぐダシール・ハメット、レイモンド・チャンドラーら探偵小説作家が描く文学スタイルだが、非情で暴力的、かつ内面描写を省いた簡素な文体を用いた、ある意味アメリカ文学における「発明」と言っていいだろう。

そこここに登場するアクションや仰々しく盛り上がるサウンドからもやはりノワールの紋切り型が見え隠れする。実の所たいがいのハリウッド・アクションは紋切り型とも言えるが、ゴダールほどの監督がなぜわざわざそういった演出を持ち込んだのか、という部分に興味が湧く。

この『アルファヴィル』は副題として「レミー・コーションの不思議な冒険」というタイトルが付けられている。勿論主人公の名前であるが、実はこのレミー・コーション、もともとフランスで人気を博した探偵映画の主人公の名であり、演じるエディ・コンスタンティーヌ自身がこの『アルファヴィル』で同じ役を再演しているのだ。さらに俳優エディ・コンスタンティーヌアメリカ人であり、彼の演じるレミー・コーションはアメリカ的な単純明快さを持つ、つまりはフランス人が想像するアメリカ人探偵の紋切り型を演じて人気を得たシリーズなのだという(ただし原作は英国人作家によるもの)。

さてゴダールはなぜそのような「アメリカ的ハードボイルド探偵」を主人公とし、さらにそれをSF作品としたのか。SF小説の始祖と呼ばれるジュール・ベルヌはフランス人であり、H・G・ウェルズはイギリス人であったが、ジャンルとして花開いたのはアメリカだったと言っていいだろう。「サイエンス・フィクション」という呼称自体がアメリカ初のSF雑誌『アメージング・ストーリーズ』で最初に用いられており、ここから一般への認知が成されたと考えられるだろう。アメリカでSFが花開いた理由は世界一の資本主義大国アメリカの高度経済成長に伴う科学合理主義、科学楽観主義、それらが生む未来への期待と不安がSFという形に結実したからだと言えはしないか。

つまり映画『アルファヴィル』はフランス人監督がフランスで製作しながら二重にアメリカ的な要素を帯びた作品だと言えるのだ。ゴダールアメリカという国にどういったスタンスをとっていたのかということはゴダール理解に乏しいオレには分からない。しかし完成した作品に少なくとも皮肉や冷笑が含まれていないことを考えるなら、アメリカという国の文化を素材としそれを対象化しようと試みたか、フランスという古い歴史を持つ国のアメリカという新しい国への憧憬があったからか、あるいはアメリカ的な視点を持ち込むことによってフランス的なるものを批評しようとしていたのか、等々、様々な理由が推測できる。

ただし物語のそこここに盛り込まれる観念的で難解な台詞、「愛」や「感情」に対する強烈な希求心の在り方は、精神性を重んじるフランス文化ならではのものだろう。ゴダールアメリカ的なものにどういった感情を抱いているのか容易には想像できないにせよ、それらアメリカ的なるものを最終的にフランス的感情に捻じ伏せたのがこの『アルファヴィル』だと言う事ができるのかもしれない。


Alphaville (1965), Jean-Luc Godard - Original Trailer

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京極夏彦の『今昔百鬼拾遺 天狗』を読んだ

■今昔百鬼拾遺 天狗/京極夏彦

今昔百鬼拾遺 天狗 (新潮文庫)

昭和29年8月、是枝美智栄は天狗伝説の残る高尾山中で消息を絶った。約2か月後、遠く離れた群馬県迦葉山で女性の遺体が発見される。遺体は何故か美智栄の衣服を身にまとっていた。この謎に、旧弊な家に苦しめられてきた天津敏子の悲恋が重なり合い――。科学雑誌『稀譚月報』記者・中禅寺敦子、代議士の娘にして筋金入りのお嬢様=篠村美弥子、そして、これまで幾つかの事件に関わってきた女学生・呉美由紀が、女性たちの失踪と死の謎に挑む。

 『鬼』『河童』と続いてきた京極夏彦の「今昔百鬼拾遺」シリーズ最新刊は『天狗』である。これまでの「百鬼夜行」シリーズでは中禅寺・関口・榎木津らが主人公を務めたが、この「今昔百鬼拾遺」3部作では彼らは一切登場せず、代わりに中禅寺の妹・敦子、そして『絡新婦の理』に登場した女学生呉美由紀が主人公となり妖怪的な怪事件の謎に挑むという訳だ。ちなみに3部作とは書いたが、作者・京極の弁によると書かせてもらえるならまだ続けたいのだそうだ。

物語は高尾山に於いて発生した数人の女性の神隠し事件、さらに後に発見された不審な腐乱死体、これらがどう結びつきどのような事件の真相が隠されているのかを追うというものだ。タイトルの『天狗』は神隠しが”天狗攫い”と呼ばれることによるものではあるが、同時に”高慢さ”の象徴としての「天狗」の意味も隠されているのらしい。その”高慢さ”とは何の事なのかは読んでからのお楽しみという事にしておこう。

さて難事件解決とは別にこの物語のもう一つのテーマとなるのは同性愛の問題である。同性愛が問題なのではなく、それに対する無理解、忌避、蔑視という問題のことだ。今でこそLGBTに関わる理解は進んでいるが、物語の舞台となる戦後まもない時代であるならその無理解は今よりも過酷なものであったろう。しかし京極はこの問題をあえて現代的に語ることによりその差別の根幹となるものをあからさまにしようとする。その根幹とは、旧弊な価値観のまま胡坐をかき続ける愚昧な男権社会の在り方なのだ。

京極作品を全て読んでいるわけではないので間違っているかもしれないが、作者・京極が女性を主人公として社会における女性の立場を描き始めたのは『書楼弔堂 炎昼』あたりからだったのだろうか。この作品において主人公となる女性は明治という変わりゆく時代を背景に、変わりつつある女性の人権の在り方を体感してゆく。しかし京極は、明治という時代に仮託しながら、その問題提起は十分に現代的であった。

そしてこの「今昔百鬼拾遺」シリーズでは、これまでの男性主人公ら全てを蚊帳の外に追い出し、若き女性二人を主人公に据え物語を展開してきた。実の所最初は主人公の性別を変える事で目先を変えることを狙ったものなのだろうと思っていたのだが、この『天狗』を読むにつけ、これは味付けと言ったものなのでは決して無く、京極なりの問題意識を提示したものだったことが理解できる。

以前から感じていたが、ここ最近の京極作品は過去の時代を舞台にしながら現代社会の問題点へそれとなく切り込んでいた。そして今作『天狗』ではその問題点の中心にあるのが武家社会の時代から何ら変わることの無い日本の男権社会であることを、登場人物の口を通しはっきりと明言する。今作においては同性愛が取り上げられたが、それはどこぞの出版社が流行らせようとしている安直な「百合小説」を標榜する為では決して無い。

 「今昔百鬼拾遺」シリーズは確かに中禅寺らが主役を務める本流「百鬼夜行」シリーズの如き論理のアクロバットやめくるめくペダントを楽しますものではないが、仏頂面した男たちのニエニエになった屁理屈から解き放たれた軽さ、軽やかさがある。これはキャラの固まった主役男性陣ではなく、これまで脇役だった女性陣を中心に据えたことの効果だ。彼女らは若くそれゆえに不器用だが、新しい価値観を持ち、聡明であり、人間への共感は決して忘れない。こうした主人公が活躍する「百鬼夜行」シリーズになかなかの新しさを感じた。

今昔百鬼拾遺 天狗 (新潮文庫)

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今昔百鬼拾遺 天狗

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■参考:京極夏彦インタビュー
■今昔百鬼拾遺シリーズ レヴュー

◎今昔百鬼拾遺 鬼

今昔百鬼拾遺 鬼 (講談社タイガ)

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今昔百鬼拾遺 鬼 (講談社タイガ)

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◎今昔百鬼拾遺 河童

今昔百鬼拾遺 河童 (角川文庫)

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今昔百鬼拾遺 河童 (角川文庫)

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やられ顔

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この間の休みの日のことだ。喫茶店のトイレにスマホを置き忘れたことを後から気付き、大慌てしてしまったことがあった。

気付いたのは出てから30分ぐらい後だった。こりゃヤバイ、と店に取って返し、トイレに駆け込んだら、置き忘れた”トイレの個室”は使用中で、すぐに確かめる事が出来ない。スマホは既に発見され店に届けられたか?今まさに中の人が発見したか?それともとっくに心無い人にナニされたか?などとあれこれ妄想が駆け巡り、やきもきしながら中の人が出てくるのを待っていた。

しばし後、出て来た方に「中でスマホ見ませんでしたか?」と途中まで言いかけてトイレの中を見たら、オレが置いた状態のままそこにあった。中から出て来た方はオレには無反応でトイレから出ていった。まあ要するに、スマホは無事だった、ということである。

ここで思ったのは、「30分の間に”個室”を使用した人がまるでいなかった」「いたけれども放っておかれた」ということだった。繁華街ではあったが治安が良かったのかもしれないし、そもそも忘れ物に無関心な人ばかりだったのかもしれない。とりあえずスマホは無事だったからよかったのだが、逆に変な気分だった。

やっと一安心ということで店から出ようとしたのだが、この時、頭の中がすっかりパニック状態であったために、店のドアが「手動自動ドア」であったものを「自動ドア」だと勘違いしてしまい、思いっきりドアに顔から突っ込んでしまった。顔に打撃ってキツイよね。特に目のあたりと口のあたりを強くぶつけ、口の中は切っちゃうし下手したら前歯折れてたかな、とも思えた。前歯は差し歯だから弱いのだ。

そんなこんなで一日二日経ち、スマホ事件も記憶の彼方になっていたある日、職場で鏡を覗いていたら、オレの片目の周りに黒マジックでこすったような跡があるのを見つけたのだ。仕事で油性マジックをよく使うので(どんな仕事だ?)、手に着いたまま目をこすっちゃったかなあと最初思ったのだが、黒マジックは使ってないんだよな。で、よくよく見るとそれが、痣だったのだ。そう、何日か前にドアにぶつけた部分だったのである。

この痣というのが上瞼から目尻にかけて出来ていて、遠目だと気付かないし、よく見てもアイシャドウ塗ってるように見える出来方なんですね。まあ片目だけアイシャドウ塗る人はいないし、そもそもオレは化粧する様な男ではないんだけど、どっちにしろ、片目の周りだけ若干黒ずんでいる。痛みも腫れも無く、目立つものでもなかったし、この程度なら一週間もあれば消えるだろうと特に心配もしなかったが、しかし顔に痣こしらえてしまったことにはびっくりした。

この身も世も無い状況をオレは早速相方さんにメールした。「こないだドアにぶつけた片目の周りに痣ができちゃったよ!」。すると相方さんから帰って来た返事が一言、「やられ顔」……。あー、そうだ、この片目の痣、よく漫画で格闘技や喧嘩でやられたことを表現する時に使われるよな!「やられ顔」とは言い得て妙だな!相方さんうまいね!と、鏡で自分の「やられ顔」を確認しながら、変な事で感心していたオレであった。やられ顔……。

ディズニー実写ファンタジー『アラジン』は青いウィル・スミスが最高過ぎる映画だったッ!?

■アラジン (監督:ガイ・リッチー 2019年アメリカ映画)

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いつもは「マッチョがドンパチ」だったり「いろんな意味でゲロゲロ」だったり「基本的にバカアホマヌケ」だったりと不遜かつしょーもない映画ばかり観ているオレなんですが、なんとこのあいだ"夢と冒険のディズニー・ファンタジー“『アラジン』なんぞを観に行ってしまったのですよ。似つかわしくないよねー。

でもねー、予告編観た時に「あ、これ観たい」とちょっと思っちゃったんですね。その理由としてはまず「エキゾチズム溢れるアラビアな光景に心ときめかされた」というのと、「青いウィル・スミスが見たい!」というのがあったんですね!

物語の内容は特に説明するまでも無いでしょう。古のアジア都市アグラバーを舞台にビンボー人青年アラジンが魔法のランプから飛び出した魔人ジーニーと共に王女ジャスミンに恋のアタックを仕掛けたり邪悪な大臣ジャファーと対決したりするという冒険ファンタジーなんですね。『千夜一夜物語』の『アラジンと魔法のランプ』を基にディズニーが1992年に製作した長編アニメ作品『アラジン』の実写リメイク作品がこの作品という訳です。ちなみに研究によると『アラジンと魔法のランプ』の逸話は実はオリジナル『千夜一夜物語』には含まれていない物語なんだそうです。

さて結論から書きますと、なにしろ楽しかった!物語の舞台となる都市アグラバーの心奪われるようなエキゾチックな光景は言うに及ばず、地中から空中まで縦横無尽に展開するアラジンのアクションには興奮させられましたし、王女ジャスミンとのロマンス展開は微笑ましかったですし、大臣ジャファーの強大な魔法には大いに恐れ戦かされました。しかし、そんなことよりなにより、青いウィル・スミスが最高だった。

ウィル・スミス映画は『インデペンデンス・デイ』と『スーサイド・スクワッド』ぐらいしか印象に残ってないんですが(『メン・イン・ブラック』は無視)、この『アラジン』における青いウィル・スミス(といか魔人ジーニーなんだけど)の楽しさはいったいこれまでのウィル・スミスはなんだったのかと思わされるほどの素晴らしいキャラであり、もはや映画『アラジン』はウィル・スミスの最高傑作だという事にしていいんではないのか、とテキトーかつ無責任に思ってしまいました(そして多分一週間後は忘れている)。ていうかウィル・スミス、これからもうずっと青くていい。それぐらいインパクトの強い役で、もしも『アラジン』にこの青いウィル・スミスが出ていなければきっと別物の映画になっていたでしょう。

ところでですね、映画を観てふと思ったことがあるんですよ。それは、魔人ジーニー(青いウィル・スミス)とは、実はドラえもんだったんじゃないのか?ということなんですね。

まずなんと言っても、ジーニーもドラえもんも青い。そして、頼りないアラジン/のび太の願望を叶えるために、夢の様な魔法/ひみつ道具を登場させ、アラジン/のび太にとことん尽くしてゆく。ジーニーはふわふわ浮いていますが、ドラえもんも実は地面から3ミリ浮いているんです!ジーニーの願望は魔法のランプからの開放ですが、ドラえもんも役目を終えてのび太から解放され未来に帰ってゆく、という物語展開がある。そう考えるとジャスミンはしずかちゃんでジャイアンはジャファーということになりますね。魔法の絨毯はタケコプターですね。いやーしかしどこもかしこもぴったり符合しますね!……ってかこじつけだって!

そんな映画『アラジン』ですが、ディズニー十八番の歌のシーンが多くて、時々踊りのシーンも入るのですよ。舞台となるアグラバーは架空の都市ですが、タージ・マハルもあるインドの都市アーグラをモデルにしてるんじゃないかという話もあるんです。実際のビジュアルはインドと中東の合体したような折衷的な架空世界なんですが。なにしろ「歌と踊り」、そして「インド」と来たら、こりゃもうインド映画しかないじゃないですか!?そう、映画『アラジン』はオレの中で「これもうインド映画でいい」と認識された映画でもあるんですね!(メチャクチャ雑) (ていうかアメリカ映画です)

ところで余談ですがそのインド映画に「アラジン」をテーマにした作品が存在してるんですよ。タイトルは『アラジン 不思議なランプと魔人リングマスター』、なんと出演がアミターブ・バッチャンとサンジャイ・ダットとリテーシュ・デーシュムクとジャクリーン・フェルナンデスという豪華メンツ、さらに日本版がDVD販売されておりますのでインド映画好き、アラジン好きの方は探してみられるのもよろしいんじゃないでしょうか。

www.youtube.com

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映画『アイアン・スカイ/第三帝国の逆襲』は清々しいほどに心洗われる駄作だった

アイアン・スカイ第三帝国の逆襲 (監督:ティモ・ブオレンソラ 2019年フィンランド・ドイツ・ベルギー映画)

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世紀の極悪軍団ナチスは生きていた!?それも月の裏側で!?第2次大戦を密かに生き延びた彼らは、秘密の月面基地を築き、地球征服の機会を虎視眈々と狙っていたのだッ!?……というストーリーの映画『アイアン・スカイ』、大変面白い映画でしたね。「月刊ムー」をバイブルと崇める中学生が片眉毛をそり落とし雪山に籠ってヒグマと戦いながら作り上げたような、根性と情熱に満ち溢れた素晴らしい怪作でありました。

そしてなんと、その続編が公開される!?と聞いた日にゃあ、こりゃもう観るしかないじゃああ~りませんか(チャーリー浜風)!?タイトルは『アイアン・スカイ第三帝国の逆襲』、前作で滅んだ筈のナチの皆さんがまた大暴れするのかッ!?しかもトレーラー観たらヒトラーがティラノザウルスに乗って襲い掛かってきちゃったりしてるじゃないですか!?こりゃもう「馬鹿が戦車(タンク)でやってくる」どころの騒ぎじゃないですよ!?前作以上に頭の悪さが炸裂するのかッ!?これ以上頭が悪いと脳死状態と一緒じゃないのかッ!?様々な憶測と期待と不安をない交ぜにしながら我々は現場(映画館)へと急行したッ!?

《物語》

人類は月面ナチスとの戦いに勝利するも、核戦争で自滅し、地球は荒廃してしまった。それから30年後、人々はナチス月面基地で生き延びていたがエネルギーが枯渇し、滅亡の危機を迎えていた。主人公オビは地球の深部に新たなエネルギーがあることを知り、人類を救うため、前人未到の<ロスト・ワールド>へと旅立つ。しかし、そこはナチスヒトラーと結託した秘密結社ヴリル協会が君臨する世界だった。ヤツらは人類絶滅を企て、恐竜とともに地底から攻めて来るッ!!

公式サイトより)

……とまあそんな『アイアン・スカイ第三帝国の逆襲』なんですがね、実際観終ってみると、これがもう清々しくなるほどの駄作で、むしろ心洗われ魂の階梯が一個上がったんじゃないかと思ってしまうほどの涅槃の境地に達してしまいました! 

まあなんといいますかねえ、「なんだよ、どこもかしこも出オチだらけじゃんかよ」ってな気分にさせられたんですよねえ。

まあオープニングの辺りはいいんですよ、期待させられちゃうんですよ、「地球滅亡後の人類生き残りが月面で細々と暮らしていたが資源は既に枯渇し……」なーんて導入部、なんかスッゴくディザスターSFしててワクワクさせられるじゃありませんか。オレは去年読んだ傑作地球滅亡SF小説『七人のイヴ』を思い出したぐらいですよ。前作の主人公だったレナ―テ・リヒターが老婆役で出てきたのも嬉しかったですね。そして今作の主人公はその娘であるオビということになってるんですね。世代交代ですね。

ただねえ……その後がもうずっとグダグダでねえ……。まず「ジョブズ教」なる連中が出てくるんですが、これがまあアップル信者をおちょくってることは分かるんですけど、「これってただおちょくりたいだけで映画と関係ないだろ?」と思っちゃうんですよ。それと主要キャラとしてハゲマッチョとロシア難民マッチョが出てくるんだけど、『ワイルド・スピード』じゃないんだからマッチョキャラ2人いらないだろ?しかも2人ともそれほどマッチョじゃないし。その後も繰り返しが多くて段取りの悪い無駄なシークエンスがあちこちで散見し出すんだけどあれ実は笑わせたかったのかあ。

さて地球に新たなエネルギー資源を取りに行く事になるオビ様御一行なんですが、なんとその場所というのが「センター・オブ・ジ・アース」、つまり「地球空洞説」ということなんですね!この着想はいい! しみじみと噛み締めたくなるほどに頭が悪くていい!そしてその「ロスト・ワールド」にはハチュウ人類が住んでいた!?というゲッターロボの「恐竜帝国」みたいな設定もいい!なんだやるじゃん!?伊達に「月刊ムー」とマンガばっかり読んでねえな(根拠のない憶測)!?

そしてここで「実はかつて人類の歴史に暴君として刻まれた圧政者の多くは異星人(だかハチュウ人類だか)だった!?人類は操られていたのだ!?」ということで、見たことのあるような方々がいっぱい出てくるんですね。それがまずヒトラーだったりチンギス・ハーンだったりビン・ラディンだったり北の大将軍様だったりするんですよ!何故だかマーク・ザッカーバーグスティーブ・ジョブズもいるんですが!ビル・ゲイツジェフ・ベゾスはいなかったと思ったな!とりあえずこの映画の監督がアップルとフェイスブックが大嫌いだということは十分に伝わってきます!この辺りのシーンは予告編でガンガン流れてて大いに期待を持たせてくれたんですがね!

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……でもねー、結局「出てきただけ」で、物語になんにも役に立ってない賑やかしにしかなっておらず、単なるコスプレ大会で終わってるんですよ。その登場のさせ方だってダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を模したかったんでしょうが、最初から全員横並びで画面に登場させてしまったら面白味もなにも無いでしょうに。

その後のアクションも「世界空洞説!謎のハチュウ人類!超エネルギー!」とかブチ挙げた割にはなんだか妙に狭い範囲でいじましい程みみっちくジタバタするだけでまるで盛り上がらない。「出オチ」した後のお話を物語るのに精いっぱいで息切れしてるんですね。結局、大風呂敷の広げ方が大きかったばかりにその後のしょっぱさが目に染みて、「悲しくて悲しくてとてもやりきれない!」と思わず涙腺を緩ませながら口ずさみたくなってしまった傷心のオレがそこにいたというわけなんですよ。

ってかなー、なんか書けば書くほど「え、でもなんだか面白そうに思えてきちゃうよ?」と誤解されそうなんですが、結局ひとつひとつのアイディアは面白い方向へどうとでも発展出来そうだったのに、その料理の仕方が拙い、アイディアの活かし方や展開のさせ方にまるで注力できていないなんですよ。「こことここが惜しい」というよりも根本的に作り方が間違っちゃってる気がするし、監督単なる「一発屋」だったんじゃないかと思わされちゃいましたね。でもまあ嫌いになれない作品であることも確かで、ホントに作るのかどうか分かんない3作目が出来たとしたらまたノコノコと観に行っちゃうでしょうね、多分。


映画『アイアン・スカイ/第三帝国の逆襲』7月12日(金)公開

アイアン・スカイ Blu-ray

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