ヤマザキマリの『パスタぎらい』を読んだ

■パスタぎらい/ヤマザキマリ

パスタぎらい (新潮新書)

イタリアに暮らし始めて三十五年。断言しよう。パスタよりもっと美味しいものが世界にはある!フィレンツェの絶品「貧乏料理」、シチリア島で頬張った餃子、死ぬ間際に食べたいポルチーニ茸、狂うほど愛しい日本食、忘れ難いおにぎりの温もり、北海道やリスボンの名物料理…。いわゆるグルメじゃないけれど、食への渇望と味覚の記憶こそが、私の創造の原点―。胃袋で世界とつながった経験を美味しく綴る食文化エッセイ。

 この間まで600ページのハードカバー小説と格闘していたので何か軽いものが読みたくなり、ヤマザキマリの『パスタぎらい』を選んでみた。このヤマザキさん、一世を風靡したコミック『テルマエ・ロマエ』の作者であり、最近ではとり・みきとの共著『プリニウス』がじわじわと面白いのだが、実は相当数のエッセイも書いている多才な方なのだ。

その多才さ、というのは若かりし頃から世界を旅していた経験やイタリア人夫がいて当然イタリアの文化歴史に造詣が深く海外在住である、なんていうコスモポリタンな側面から来ているのだが、単にコスモポリタンなだけなのではなく、そういった人生を選んできた人としての身軽さ、思い切りの良さ、そしてなによりも傑物とでも表現したくなるような豪快なキャラクターの在り方、そういった部分の魅力が彼女の表現するものには存在し、この『パスタぎらい』も彼女のそんな側面を如実に感じ取ることができる。

まずなにしろ、タイトル『パスタぎらい』だ。イタリア滞在が長くイタリア人夫でイタリア文化も熟知し……ときていきなり『パスタぎらい』ときたもんだ。こりゃもう「お、なんだなんだ?」と思わされてしまうではないか。パスタが嫌いなだけではなくイタリア人なら誰でも愛するコーヒーも嫌いでトマトや果物まで嫌い、というから恐れ入り谷の鬼子母神である。

しかしこれだけ書いてしまうと単に自らの偏食を奇を衒って書いただけの文章に思われてしまうかもしれないが、例えばパスタに関しては「イタリア貧乏時代に安上がりなパスタを一生分と言っていいほど食べたから」という理由があったりする。

実はオレも若い頃は相当に貧乏暮らしをしていた人間なのだが、そんなオレがほぼ毎日食っていたのもパスタであった。パスタ麺は大量買いすると安いし炊飯するより調理が簡単だし保存も効くしなによりおかずがいらない。ちょっとの野菜とベーコン等肉類を使えばなんとなく料理のように見え、トマトやあさりの缶詰めやバジルペーストや卵を使えばそれぞれ別のパスタになる。なんとなればニンニクだけのアーリオオーリオペペロンチーノという手がある。

特にこのアーリオオーリオペペロンチーノに関してはオレの高校時代からの得意メニュー(?)だ。ニンニクと唐辛子と月桂樹をオリーブオイルで程よく熱し味を出すのがコツなのだ。今は昔ほど貧乏ではないが小遣いを使い過ぎた月の月末はやはり夕飯がパスタばかりになることがある。こんな具合にオレにとってパスタというのは「自分で作れる最も安上がりな食事」だから、ここぞという外食でパスタを食う気にはとてもなれないし、ましてやお高く気取ったパスタなんてナニソレ?って感じである。ただし「安上がり」とは書いたが使用するニンニクは多少高くても国産品がいい。中国産の「4個100円」なんていうのは風味がまるでなくてあんなもの論外だ。

自分の事ばかり書いてしまったが、ヤマザキさんがこの本で書いているのはもっと現地における庶民的な食事であったりジャンクフードであったり、あれだけ海外を経巡りながらも「結局おにぎりとラーメンが最高!」という頑なな日本人舌のことであったりする。ユニークではあるがベタな人でもある。この辺の気取らなさと併せ、同時に「美味いもの」には貪欲で、偏食の様に思わせながら実は様々な料理に旺盛な興味を見せ果敢に挑戦し「やっぱりモツは美味い!」と言いながらも「死ぬ前に食べるのポルチーニ茸一択!」なんて言ったりもする。要するに好奇心の幅が広く思い込みが強く好き嫌いには頑固な人なのだ。

こういう人が書く文章だから「世界の食文化比較」ではありながら別にそれをアカデミックに分析しようなんていう大それたものではなく、単に「美味いもんは美味い!好きなもんは好き!」「食事するのって最高!」「あの国のアレ、メッチャ美味かった!」という分かり易く単純な話なのだ。とはいえ合間合間には古代ローマ知識がちらちらと披露されいきなりふむふむと読まされることになる部分も面白い。この辺り、椎名誠のメシ話に共通するものがあって実に楽しい。

そういやオレの相方もメシを食うのが大好きな女性で、当然オレも美味いもんが好きなのだが、こんな二人で食事をしながら「美味いねえ美味いねえ」とやってる時が実に幸せだ。世の中には食が細かったり偏っていたり食事に興味の無い人もいるようだが、自分の相方がそういう人間じゃなくて本当に良かったとよく思う。男女にはいろんな「相性」というものがあると思うが、「同じ食べ物を同じように楽しめる相性」というのも絶対にあると思う。ヤマザキさんのこの本には「あ、この人、こっち側の人だな」と思わせる部分が十二分にあって、そういった親近感を沸かせるところもこの本の面白さだった。

パスタぎらい(新潮新書)

パスタぎらい(新潮新書)

 
パスタぎらい (新潮新書)

パスタぎらい (新潮新書)

 

 

バンドデシネ・アーチスト、バスティアン・ヴィヴェス特集:その4『ラストマン(6)』

 ■ラストマン(6)/バラック、 ヴィヴェス 、サンラヴィル 

ラストマン 第6巻 (EURO MANGA COLLECTION)

バンドデシネ作品『ラストマン』は日本では現在最新刊6巻が刊行されている現在進行形のコミックである。内容はこれまで紹介した3作と大きく異なり、日本の少年漫画誌で連載されてもおかしくないメジャーど真ん中な格闘魔法SFマンガだ。それもそのはず、この作品は作者の日本のコミックへの大いなるリスペクトによって描かれたものなのだ。さらに日本のコミック『バクマン。』を参考にし、バラック、ミカエル・サンラヴィルら3人と作画チームを結成しての製作だというから念には念が入っている。

なにしろ内容は「格闘魔法SFマンガ」であり、主人公少年の成長譚だ。異世界が登場し魔法対決が行われたかと思うと現実世界風の都市が現れ筋肉と筋肉がぶつかる格闘が描かれ、さらに人体改造を施された謎の刺客が主人公を襲うというSF展開まであり、謎が謎を呼ぶ物語は興味を尽きさせることがなく、「これこそMANGAの王道!」といった部分を追求したテンコ盛りの構成なのだ。

登場人物の描画は親しみやすく内容は分かりやすく、コマ割りもテンポもスピード感も日本のコミックそのままである。 とはいえ物語のそこここにヨーロッパの匂いが横溢する部分でやはりフランス人執筆者チームという気がする。そして、簡素な描線にもかかわらず、グラフィックは非常に技巧的であり、優れている。

この6巻ではこれまでの謎が殆ど説明され、主人公の旅も一段落と思わせながら、物語始まって以来の大波乱が訪れる。こうしたクリフハンガー形式もお約束として楽しいし、なにしろ次の巻までわくわくさせられる。1冊1冊の単価も日本のコミッククラスだから、今から読み始めてもまだ懐に打撃を与えないぞ!日本のコミック以上に今オレの中で続巻が楽しみでたまらない『ラストマン』、マンガ好きな方には是非お薦めしたい。

ラストマン 第6巻 (EURO MANGA COLLECTION)

ラストマン 第6巻 (EURO MANGA COLLECTION)

 

バンドデシネ・アーチスト、バスティアン・ヴィヴェス特集:その3『塩素の味』

 ■塩素の味/ バスティアン・ヴィヴェス

塩素の味 (ShoPro Books)

この『塩素の味』は2008年刊、今回紹介した中でも初期の頃の作品にあたり、同時に作者バスティアン・ヴィヴェスの名を大きく世間に知らしめた作品でもある。日本でも作者の初紹介作であり、唯一の全ページカラー作品だ。この単行本『塩素の味』には『塩素の味』『僕の目の中で』の2作が収録されている。 

タイトル作『塩素の味』はプールに通う少年と少女の出会いの物語だ。そして、ある意味”物語(ドラマ)”はそれだけしかない。しかしこの作品においても、作者が主眼とするのは【「描かれるもの(物語)」ではなく「描き方(見せ方)」】なのだ。作品内で描かれる殆どのページには、プールと、プールの水と、そこで泳ぐ(そしてたまに会話する)主人公たちのみが描かれる。それ以外の余計なもの、余計な世界が一切登場しない。

ここで目にすることができ、そして感じることが出来るのは、全編ペパーミントグリーンの色彩で統一された美しい画面、その色彩で描かれるプールの水の透明感、冷たさ、そこで泳ぐものたちが感じているであろう水の抵抗、水泳に使われる筋肉の動き、疲労、そして”塩素の味”だ。

特にコマ運びにおける時間感覚の在り方が独特だ。オノマトペは一切使われず、会話以外には静寂と、ゆっくりとした時間の流れだけが支配する作品世界なのだ。この作品を読む者は自らもまたプールの中にいるかのような錯覚に捕らわれるだろう。まるで感覚に直接的に訴えてくるかのような説得力の高いグラフィックと構成を成しているのだ。オレは「読む清涼剤」とかいうダサい惹句を思いついたぐらいである(スマン)。

もう一作、『僕の目の中で』は図書館で出会った学生と見られる男女の物語だ。『塩素の味』とは手法を変え、ここではパステルタッチのグラフィックが枠線なしで1ページに5~9コマのペースで進行する。そしてこの作品の独特さは、話者の視線の先にいる彼女、ないし周囲の風景のみが描かれ、話者が一切画面に登場しないことである。さらに彼女との会話シーンにおいて、話者自身の会話内容もまた一切描かれない。だから会話内容は推測するしかなく、その状況も想像するしかない。

この手法により、愛する彼女を(彼女のみを)みつめていたい、という話者の心理と高揚が、読む者の心理に直接的にシンクロし、これもまた『塩素の味』と同様に、読む者が自ら愛する女性の前にいるかのような錯覚を覚えさせてしまう。映画ではPOV視点映画というのが一時流行ったが、それと同様の迫真性を感じさせるのだ。

しかもこの作品においても時間感覚は特徴的で、一つ一つのエピソードは23ページでぶつ切りとなり、場面展開に説明は無く、断片的な情景が並べられるだけのその描き方からは、そのどの情景も「今」という刹那を切り取ったもののように思わされてしまう。楽しく豊かな時間は永遠の一瞬であるかのように。だからこそ最後に訪れる別離の悲哀も、一瞬のような永遠なのだ。

 

バンドデシネ・アーチスト、バスティアン・ヴィヴェス特集:その2『ポリーナ』

■ポリーナ/バスティアン・ヴィヴェス

ポリーナ (ShoPro Books)

日本では2014年に刊行された『ポリーナ』はバレエ・コミックである。幼少よりバレエの才能に恵まれたロシア生まれの少女ポリーナが、厳格なバレエ教師との間で悩み葛藤し対立しながら、あるいは友人や恋人や協力者との人間関係の中で成長を遂げ、自分にとってのバレエを見つけてゆくという物語である。

この作品において注意したいのは、これは成長の物語であり、バレリーナとして大成する一人の女性の物語ではあるけれども、いわゆる「サクセス・ストーリー」とはきっぱり袂を分かつものであるといった点だ。彼女の目指すのは喝采や賞賛ではなく、彼女自身が納得できる形での芸術としてのバレエの完成であり、それを追い求めるためのバレエとの対話なのだ。

バレエや芸術などというと庶民的感覚ではリアリティの稀薄な縁遠いもののように感じてしまうが、これを「自己表現の在り方を模索する表現者の物語」と捉えるなら理解度も高まるだろう。類稀なスキルを持ちながらそれでも苦悩し葛藤するポリーナが請い求めていたもの、それは「自分が何をどのように表現したいのか」という確固たるビジョンであったに違いない。そして煎じ詰めるならそれは、「自分とは何であり、何でありたいのか」という自己観念の物語でもあるのだ。

この作品においても注目すべきなのはそのグラフィックだろう。「バレエ・コミック」というと華美であり格調高いものを想像してしまいそうだが、この作品においては竹ペンを思わせる朴訥な描線を使用し(実際にはCG描画)、柔らかさや温かみを感じさせるグラフィックを表出させているのだ。そしてこの描線は、バレエの動きの柔らかさを表現するのと同時に、それを踊る者の心の柔軟さ、伸びやかさまでも表現することを可能にしているように思う。 

 なおこのコミックはバレリー・ミュラー、アンジェラン・プレルジョカージュ監督により『ポリーナ、私を踊る』というタイトルで2016年に映画化公開されている。

ポリーナ (ShoPro Books)

ポリーナ (ShoPro Books)

 

 

バンドデシネ・アーチスト、バスティアン・ヴィヴェス特集:その1『年上のひと』

■年上のひと/バスティアン・ヴィヴェス

年上のひと (トーチコミックス)

バスティアン・ヴィヴェスといえば新進バンドデシネ・アーチストとしてかねてから注目を浴びる作家だが、オレは格闘ファンタジーコミック『ラストマン』でしか名前を知らなかった。で、それ以外の作品にも触れてみようということで日本で刊行されている彼の作品をまとめて読んだ。という訳で当ブログでは今日から4日間、バスティアン・ヴィヴェスの作品を集中して紹介する。まず最初は最近刊行された『年上のひと』。

物語はフランスの避暑地を舞台に、ヴァカンスでそこに滞在することになった13歳の少年アントワーヌと16歳の少女エレーナとのひと夏の恋を描いた作品だ。まだ少年でしかないアントワーヌにとって、ちょっと大人びた少女エレーナは最初姉のような存在であり、それが次第に友人となってゆき、後に恋人のような関係へと発展してゆく。この「ちょっと甘酸っぱく、そしてほろ苦い」ティーンの初恋を、優しく暖かな空気感に満ちた風光明媚なロケーションの中、瑞々しい筆致で描いたのが本作である。

まあしかしこう書くと実も蓋もないのだが、これはフランスと言うお国柄なのか10代の少年少女とはいえ想像以上にセクシャルな面において進んでいて、その辺実に「青い体験」な描写が後半に進むほど描かれることになるのだが、これがいやらしく感じさせること無く、むしろそれによって強烈な精神的結びつきを得てしまった二人の、いわく言いがたい切ない想いが物語全体を染め上げてことになるのだ。

こういった作品性を可能にしているのはなんといっても作者スティアン・ヴィヴェスの描くグラフィックの、力の抜けた流れるような描線と、省略が多い淡白とすら感じさせる画面構成の在り方によるものが大だろう。要は、「描かれるもの(物語)」ではなく「描き方(見せ方)」なのだ。そのグラフィックの軽やかさにより、この物語は切なくもあると同時に美しい余韻を残した作品として完成している。シンプルなテーマゆえに掌編といった風情ではあるが、 スティアン・ヴィヴェスの力量を確かめることのできる作品である。