つれづれゲーム日記:『デビルメイクライ5』の巻

デビルメイクライ5 (PS4/XboxOne/PC)

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スタイリッシュだ!スタイリッシュなんだ!デビルメイクライ5』はスタイリッシュがウリのゲームなんだ!スタイリッシュにアクションをキめ、スタイリッシュに敵を倒す!フィニッシュ後はスタイリッシュな戦い方を評価するスタイリッシュランクが付けられる!主人公のオニーチャンたちもなにやらスタイリッシュじゃないか!もうなにからなにまでスタイリッシュだらけだ!問題はやってるオレがスタイリッシュのスの字もかすらないむさ苦しいオッサンだってことだ!くそう悔しい!『デビルメイクライ5』はなんだか悔しい気分にさせられるゲームだぞギリギリ(歯軋り音)!

というわけでゲーム『デビルメイクライ5(DMC5)』である。『5』と付いているわけだからシリーズ5作目という事である。デビルハンターのスタイリッシュなオニーチャンたちがスタイリッシュに悪魔を倒してゆく、という内容のアクションゲームである。オレも2001年にPS2で発売された1作目からやっている筈なのだが、シリーズ全作やったかどうかとなると、これが記憶が曖昧である。今調べたら1と4と外伝DMCだけだった。なんだたいしたやってないじゃないか。

そのせいもあってかストーリーがよく分からないし登場人物もよく覚えてない。一応今回の『DMC5』には「これまでのあらすじ」という親切ムービーが付いているのだが、それを眺めてみてもやっぱりよく分からない。これは親切ムービーが親切じゃなかったということではなく、オレの理解力がザザムシの脳ミソ程度に果てしなく低いからというだけの理由である。ファンの方、製作者の方、本当に申し訳ない。

しかしだ。そもそもアクションゲームなのでストーリーが分からんから出来ないという事は全くない。なにしろ仲間たちと協力し合って地獄からやってきた悪魔の皆さんを延々ヌッ殺してゆけばいいゲームだからである(「永遠」じゃなくて「延々」ね。ここ大事よ)。スタイリッシュに敵を倒す為には様々な技を使用しなければならないのだが、オレの如きボケが始まってきた老人ゲーマーには難易度イージーという救済策がある。このイージーだと適当にボタンがちゃがちゃやっているだけで見栄えのいいアクションを演じてくれるのだ。ありがとうイージー。君がいるからオレは今でもゲームができるんだ。

とはいえ適当なプレイではスタイリッシュランクが低いのはいうまでもないことだ。「ランクⅭ」とか言われるとついイラッと来る。当然と言えば当然なのだが、楽な方法を選んでいるクセに評価も得たいとか、見栄っ張りな上に虫のいいしょーもないオッサンなのである。こういう輩は社会でもロクな扱いを受けない。じゃあどうするかというとちょっと頑張ってみるのだ。おお、なんとこのオレが努力だと!?そうするとたまに「ランクS」とか「SS」とかさらには「SSS」までつくじゃんか!嬉しいぞ!オレは嬉しいぞ!こういう部分でプレイスタイルを促す仕組みが心憎いといえるかもしれない。

操作できるキャラは「ネロ」「ダンテ」「V」の3人らしいのだが、この「V」というキャラが面白くて、幻獣を使役して戦うという設定なんだが本人には戦闘力が無い。だからこいつが持っている杖を振り回すアクションがどうにもへっぴりごしで妙に可笑しい。にもかかわらずこいつでプレイするとけっこう高いランクが出て、キャラ選択の場面があると結構こいつを使ってしまうな。あとシリーズ全てやってるわけではないので比較ができないが、今作の難をちょっと言えばアクションの合間合間に頻繁にムービーが入ってテンポが落ちるといった部分か。まあオレの様な老人ゲーマーには丁度いいぐらいのテンポと言えるかもしれないが。

それとこれは内緒だが、実はパワーアップアイテムをちょっと課金してしまってな……いや安かったからなんだけどさ……。難易度イージーでさらに課金でパワーアップ。なんというかもう、タイトル通り「悪魔も泣き出す」ようなヌルさ100万倍の地獄落ちプレイを堪能する老害ゲーマーなオレなのであった……。すまん、本当にすまん......。

デビル メイ クライ 5 - PS4

デビル メイ クライ 5 - PS4

 
デビル メイ クライ 5 オリジナル・サウンドトラック

デビル メイ クライ 5 オリジナル・サウンドトラック

 
デビル メイ クライ 5 公式コンプリートガイド

デビル メイ クライ 5 公式コンプリートガイド

 

ケン・リュウ最新SF短編集『生まれ変わり』を読んだ

■生まれ変わり/ケン・リュウ

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わたしは過去の自分を捨て、生まれ変わった…。地球に到来した異星の訪問者トウニン人と共生することになった人類は、大いなる代償と引きかえに、悪しき記憶を切除して新しい自分に「生まれ変わる」道を選ぶことが可能になった。トウニン人のパートナーをもつ特別捜査官の男がトウニン人殺害テロの謎を追う表題作、アジアの田舎の靴工場で女工として働く少女の数奇な運命を描く「ランニング・シューズ」、謎の僧に見出され殺し屋としての人生を生きることになった唐の将軍の娘の物語「隠娘」など、短篇小説の名手ケン・リュウが描く、20篇を収録した日本オリジナル短篇集第三弾。

今のオレにとって現在最高のSFの書き手はケン・リュウだ。ケン・リュウ、1976年中華人民共和国生まれで現在アメリカ在住のSF作家である。日本ではこれまでに短編集『神の動物園』『母の記憶に』 、長編『蒲公英(ダンデライオン)王朝記』の訳出がある。

ケン・リュウSFから感じるのは脱西洋的な視点であり、それにより欧米SFの在り方への批評ともとれる作品を物しているという事だ。これは彼が中国生まれという出自を持つことが当然影響していると思う。ケン・リュウは欧米的な科学主義SFが取りこぼした「人間性」をその作品の中でもう一度取り戻そうとする。さらに歴史の中で欧米列強によりないがしろにされてきた第三世界の心情にできるだけ寄り添い、その中でSFという形で物語を紡ごうとする。

ケン・リュウ作品がオレにとって最高のSFと思わせるのは、ともすれば従来的と思いこまされてきた西洋的な視点からの転換と、それとは違うオルタナティブ歴史認識・人間観の在り方が非常に新鮮に感じるからなのだ。

例えばSF作品ではお馴染みのテーマである「人間の意識の電脳人格化」だ。究極化した科学技術であればそれは可能なのかもしれないし、欧米SFはそれを無批判に描き出すが、ケン・リュウSFではそれは否定的なのだ。それが科学技術で可能であろうとも、肉体という頸木を持たない生命が果たして生命と言えるのか、とケン・リュウSFは問い掛ける。

この「電脳人格」に関するケン・リュウSF作品は非常に多い。これはこれまでSFが、例えば現在欧米SFの極北に位置するグレッグ・イーガンの作品などが安易に描いてきた「電脳人格」の在り方への批評であると同時に、どんなに科学が発展しようとも存在する「人間的要素」、即ち「人間を人間たらしめているものは何なのか」ということがケン・リュウの創作的興味の中心にあるからではないか。そう、ケン・リュウSFの中心にあるのは、常に「人間」なのである。

さて前置きが相当長くなってしまったが日本編集版ケン・リュウ短編集第3弾『生まれ変わり』である。これまで2巻出た短編集よりもさらに分厚く、20編の短編が収録されている。この分厚さと収録作の多さは、そのままケン・リュウSFへの日本における期待値が大いに膨れ上がっているからという事に間違いは無いだろう。

作品の執筆時期は2014年を中心に2018年に書かれた最新作まで収録するが、これまでの短編集で取りこぼした2011年作品も収録されている。そもそもがバラエティー豊かなテーマを描く作家だが、この執筆時期の幅により、彼のSF作品への向かい方の微妙な違いまで感じることもできるかもしれない。

全体的な印象としては、これまでの短編集よりもより「柔らかく」、「優しい」。これまでの作品ではSFテーマへの突き詰め方がどちらかというとハードであったものが、もっとソフトになってきたという事だ。女性の主人公の作品が多く、さらに少女が主人公の作品が目に付き、より感情の機微が豊かで、さらにそれらの作品の多くは、希望と救いがある。もちろんそうでない作品もあるが、基本的な部分では、人間への深い共感と愛情が描かれることになるのだ。

そしてこの『生まれ変わり』では、これまで否定的だった「電脳人格」の描き方を方向転換し、より積極的に「電脳化された人格のその先」を描こうとしている部分が目を引いた。これはどういうことなのだろうと思ったが、ケン・リュウがやろうとしたのは、「電脳人格の存在を肯定することによって、そこにどう人間的要素を見出そうとする事できるか」だったのではないか。ここにも従来的・先験的なテーマの在り方への批評が存在していると感じた。

例によって傑作揃いであり、これまでの二つの短編集と比べても全く遜色のない作品ばかりだが、2018年に書かれた最新作『ビザンチン・エンパシー』などを読むと、ひょっとしてケン・リュウは既にSFという枠組みに窮屈さを覚えているのではないかということをふと思った。この作品におけるSF的要素と呼べそうなものはVR技術とブロックチェーンだが、どちらも既に現行のテクノロジーであり目新しいものではない。SFというよりもスリップストリーム文学に近い。意外とケン・リュウはこちらの方向に行ってしまうのかもしれないが、これはこれでよりリアルな世界情勢を描き出しており、もし彼の興味の行く先が変わったのだとしても、これからもその作品を追い続けていきたいと思わせてくれた。 

生まれ変わり (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

生まれ変わり (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

 
紙の動物園 (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

紙の動物園 (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

 
母の記憶に (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

母の記憶に (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

 

えッ!?私の彼氏は大富豪!?/映画『クレイジー・リッチ!』

クレイジー・リッチ! (監督:ジョン・M・チュウ 2018年アメリカ映画)

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ごく普通の生活を送る彼女が交際していた彼氏は実は大富豪の御曹司だった!?ヤダウソホント!?というラブコメディ『クレイジー・リッチ!』です。

ん?こんな玉の輿ストーリーなんて随分ありきたりなんじゃない?と思われるかもしれませんが、実はこの作品、オールアジア人キャストでハリウッドで製作された、という事が話題になり大ヒットした作品なんですね。原題は『CRAZY RICH ASIANS』、タイトル通り「すんげえリッチなアジア人たち」が大挙して登場する部分が面白そうじゃありませんか!監督は『グランド・イリュージョン 見破られたトリック』『G.I.ジョー バック2リベンジ』のジョン・M・チュウ、原作はケビン・クワンの『クレイジー・リッチ・アジアンズ』。

《物語》NYで経済学の教鞭をとるアジア系アメリカ人女性レイチェル(コンスタンス・ウー)にはニック(ヘンリー・ゴールディング)という名の恋人がいましたが、ある日シンガポールで行われるニックの親友の結婚式に誘われます。軽い気持ちでOKしいざ飛行機に乗るとなんとファーストクラス!「なにこれどゆこと?」と問い質すレイチェルにニックは実は自分がシンガポールの大富豪一族の一員であることを明かします。「えーうっそー!?」そして現地についてみると次から次に大富豪たちの歓待を受けるレイチェル!さらにニックはレイチェルへのプロポーズを狙っていた!しかーし!!ニックの母エレナ(ミシェル・ヨー)は身分違いの二人の交際を全く快く思っていなかったのです!

はい、確かにこの粗筋だけでもやっぱりありきたりに思われるかもしれません。白人俳優が演じる同工のハリウッド映画は今まで沢山あったでしょう。しかし、似たようなお話なのにもかかわらず、これがアジア人俳優によりアジア人らしい心情と事情でもって描かれると一味も二味も違う物語となっているのですよ。

まずここには欧米的な個人主義の中で努力し成功を勝ち得たレイチェルという中国系アメリカ人女性が登場します。しかし彼女が対峙することになるのはシンガポールにおいて古くから華僑として覇権を広げてきた中華思想/自民族中心主義的な富豪一族なんです。同じアジア人であっても立脚点が東西正反対の部分に根差しているんですね。つまり単なる「一般人と大富豪との格差」のみをクローズアップした作品ではないんですよ。ここにあるのは中国系アメリカ人としてアメリカ的思考をする女性と大陸的思考をそのまま受け継いでいる華僑との断絶なんですね。

それともう一つ、この作品を面白くしているのは「大富豪」というざっくりしたイメージの存在を様々なグラデーションで描き、決してステレオタイプの「大金持ち」にしていない部分なんですね。まあオレの如き日本一の貧乏人の家に生まれオレ自身も現在絶賛貧乏人中の人間にとって「大金持ち」なんてものが身近にいるわけがありませんから、「大富豪」「大金持ち」なんてェのはステレオタイプ的な認識しかしていない。だから「金持ち?カンケ―ねーよー!」なんて夜空の月に向かって遠吠えの一つもかましたくなりますが、この映画では様々なグラデーションの「大富豪」を描くことで、彼らの心情に少しづつ近付いてゆくことを容易にしているんですよ。そしてこれは、主人公レイチェルの富豪という存在への心情的接近(あるいは忌避)とシンクロしているんですね。

それはまず、レイチェルの親友女性家庭の下品で俗っぽい成金ぶりです。これは「下品な金持ち」のステレオタイプをモロに打ち出した理解し易く入り込みやすい存在です。そして次に「妻は富豪一族だが、夫は元は一般人」の家庭が描かれます。これはレイチェルとニックの逆のパターンとなり、そういった家庭の幸福のあり方や難しさを描きます。次に、富豪であることをかさに着ない、一般人のレイチェルにフレンドリーな存在と、レイチェルを一般人ゆえに下に見る金持ちが登場します。富豪であっても心根は千差万別という事です。そして最後に、ラスボスとなるニックの一族、由緒正しい正真正銘の大富豪が登場するという訳です。この段階を踏むことで、物語は単なる「一般人と大富豪との格差」を描くのではなく、その核心である人間性のあり方を掘り下げることに成功しているんですね。

そういった中で、レイチェルは「自分が誰であり何であるのか」を再認識し、ニックとの幸福な明日を勝ち取るために、ラスボスであるニックの母のその心情の中心に果敢にも切り込んでゆく、というのがこの物語の醍醐味となるんですよ。そしてこれら感情の火花散る人間ドラマ、人間対人間の対決の面白さだけではなく、富豪たちの金に糸目をつけないパーティーライフの蕩尽ぶり、思わず「まあステキ……」と溜息の出そうな結婚式の壮麗さなど、大富豪生活への下世話な興味を満足させることも忘れていません。あれこれ書きましたがこれは基本的にはラブコメディでありシンデレラストーリー、笑って泣いてたっぷり楽しめるエンターティメント作品であることは間違いありません。

■参考記事

「もっと『クレイジー・リッチ!』について知りたい!」という方はこちらをお読みになるとさらにずっと参考になります。

 
映画『クレイジー・リッチ!』予告編

クレイジー・リッチ・アジアンズ 上

クレイジー・リッチ・アジアンズ 上

 
クレイジー・リッチ・アジアンズ 下

クレイジー・リッチ・アジアンズ 下

 

第1次世界大戦の惨禍により醜く歪んでしまった友情/映画『天国でまた会おう』

■天国でまた会おう (監督:アルベール・デュポンテル 2017年フランス映画)

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2017年にフランスで公開された映画『天国でまた会おう』は第1次世界大戦の惨禍により醜く歪んでしまった友情と、昏い狂気に冒された復讐を描く作品である。それはこんな物語だ。

第1世界大戦終結間際の西部戦線。戦場で友情を培ったエドゥアール(ナウエル・ペレーズビスカヤート)とアルベール(アルベール・デュポンテル)は、プラデル中尉(ローラン・ラフィット)から不条理な突撃命令を受ける。激しい砲弾の最中エドゥアールはアルベールの命を救うが、代わりに自らは顔半分を失う惨たらしい怪我を負う。そして終戦。アルベールは命の恩人エドゥアールの世話に尽力するが、貧困がアルベールを苛み、エドゥワールもまた心を病んでいた。ある日エドゥワールは詐欺計画を思いつくが、その矛先はいつしかエドゥワールが心の底から憎む父と終戦後財を成したプラデル中尉へと向けられてゆく。

原作は『その女アレックス』でも有名なピエール・ルメートルの同名小説。また、監督・脚本のアルベール・デュポンテルは同時に主演俳優としても登場している。

極めて心を揺さぶる作品だが、同時に、奇妙な味わいを持つ作品でもある。まずどういったジャンルの作品なのか、と伝えるのが難しい。愛と憎しみ、悲嘆と復讐の念とが渦巻く人間ドラマであり、詐欺事件を描く犯罪ドラマでもあるが、にもかかわらずどこか現実離れした、いびつなファンタジーの様相も呈しているのだ。それは顔半分を失った男エドゥワールにもともと芸術の才があり、彼が常に自らの作った様々な仮面を着けて登場するからである。顔と同時に声も失ったエドゥワールは、それら仮面を着けることでその時々の感情を訴えかけているとも言える。そして歪んだ表情を浮かべるそれら仮面の姿が、物語に現実から遊離しているかの如き幻想味を与えているのだ。

同時にこれは終戦を境に何もかもが変わってしまった社会と、そこから取り残されてしまった男の悲哀を描く物語でもある。エドゥワールは狂気に冒され犯罪を企てる。悪人プラデル中尉は詐欺まがいの事業で財を成し左団扇だ。エドゥワールの憎んでいた強権的な父は息子が死んだと思い込み始めて自らの愛に気付く。そんな中、終戦後職を失った主人公アルベールはサンドイッチマンとして糊口をしのぎ、明日をも知れぬ生活を続けている。登場人物誰もが良きにせよ悪きにせよ別の運命を選択する中で、アルベールだけが宙ぶらりんの人生の中で途方に暮れているのだ。

アルベールが不幸と悲嘆を抱え込むことになったのは、それは彼が小心者の善人であったせいでもあった。結果的にはエドゥワールの犯罪の片棒を担ぐことになるが、それも命の恩人であり惨めな傷痍兵であるエドゥワールを捨て置けないという止むに止まれぬ理由があったからだった。戦争は何もかもを醜く変えてしまい、そんな中力を持たぬ市井の男でしかないアルベールは善人であるがゆえに世の中から取り残されてしまう。そしてただ一人の友人は狂った犯罪者なのだ。

作品タイトル『天国でまた会おう』は冤罪で銃殺刑になったある兵士の妻にあてた手紙からとったという。これは真の幸福は既にこの世界には無いという絶望についての言葉だ。戦争の悲惨の中で後戻りできない運命を歩むことになってしまった者たちが、もはや手にすることの出来ない幸福だった世界を取り戻すことができるのは、それは天国、つまりは死後の世界にしかない。しかし、様々な陰惨な運命を描くこの物語で、アルベールがやっと見つけた「自らの運命」がささやかな恋だった、というのがこの作品に救いをもたらしている。それは、どんなに厳しくあろうともこの地上にしか幸福を求める場所は無いのだ、ということでもあったのだ。

 

天国でまた会おう(上) (ハヤカワ・ミステリ文庫)

天国でまた会おう(上) (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 
天国でまた会おう(下) (ハヤカワ・ミステリ文庫)

天国でまた会おう(下) (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

 

ポーランド製作による狂気の未完SF映画『シルバー・グローブ』

シルバー・グローブ (監督:アンジェイ・ズラウスキー 1987年ポーランド映画

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「1987年ポーランドで製作されたが政府による製作中止命令により未完のままお蔵入りになっていたSF映画作品が遂に劇場公開/Blu-ray化」 といういわくに満ちた映画『シルバー・グローブ』を観た。監督は『ポゼッション』(1981)『狂気の愛』(1985)を撮ったアンジェイ・ズラウスキー。ただしこの監督の作品を観るのは初めてである。

作品は莫大な予算を描け2年に渡り撮影されていたが、予算超過を理由に国側から強制的に製作中止が言い渡される。国側から、というのは当時ポーランド共産主義国家であり、そもそも映画製作は官製のものしか存在しない時代であったということだ。10年後、ズラウスキーはあえて未完成で公開することを決め、未撮影の部分をワルシャワの街並みを写した情景とズラウスキー自身による欠損部分ストーリーの説明で埋めて体裁を整えた。これが現在観る事のできる『シルバー・グローブ』である。

さてこの『シルバー・グローブ』、未完成作ということも相まって相当に難解な作品である。一度観ただけではそのストーリーすらも理解不能だ。しかしだ。「未完成」「難解」「理解不能」という足枷がありつつも、この作品が、とてつもない熱量とありえない美術で作られた、とんでもなく凄まじい作品であるということは、膚にビンビンと伝わってくるのである。

一応あらすじを書いてみると、荒廃した地球から居住可能な惑星「シルバー・グローブ」へと飛び立った宇宙飛行士たちが、その星の原住民たちに宗教的存在としてあがめられ、または同化し、敵対する異形の生物を撃退しながらも、最後には原住民たちの期待を裏切ったとして虐殺されてしまう、といった内容だ。多分。本当はもっと違うのかもしれない。

この作品で表出するSFイメージの異様さは他に類を見ない。例えるならアンドレイ・タルコフスキーLSDをキメてバッドトリップしながら撮ったSFと言うこともできるし、アレハンドロ・ホドロフスキーがギーガーの代わりにベクシンスキーを使って『デューン』を7割がた完成させていたらこうなっていただろうとも思えるし、さらにアレクセイ・ゲルマンがカラーで『神々のたそがれ』を完成させていたらこの作品になっていただろうとも言える。

それは未来的なSFイメージなどというものではなく、廃墟と荒廃と汚濁に満ちた荒涼たる世界に、石器時代かと見紛うばかりの土俗的な部族衣装を身につけた原住民が、原始的な生活と退化したかのような文明の中で、おぞましい祭祀に溺れながら理解不能の妄言を延々と繰り延べている世界なのである。それは不気味で、異様で、にもかかわらず、精神病患者の描く絵画を見せられているかのような、醜さと紙一重の美に満ちているのだ。

物語をさらに難解で異様なものにしているのは、俳優たちが機関銃のように喚きまわる抽象的で宗教的な台詞の数々だ。ここから意味を汲み取ることは相当に困難だが、そもそもが狂気に侵され錯乱した脳髄の発する繰り言であるのかもしれない。そしてそれら俳優たちの台詞は、録画記録中であるという設定であるがゆえに、いわゆるPOV的なカメラ目線で延々と成され、その暑苦しさと奇怪さはなお一層増すことになるのだ。撮影自体も多くのシーンで手持ちカメラを使用しており、常に揺れ、ぶれ、視点の変わる映像は息苦しいばかりだ。そしてそれが上映時間160分間延々と続くのである。

予算超過が理由とされている政府からの製作中止命令を、製作者らは共産主義政権の批判が込められていたとされた為だ、はたまた宗教的冒涜があったとされたからだ、と憶測しているらしいのだが、いや、オレはこの映画を観て、その理由が、この作品がとてつもなく狂っていたからなのではないかと思えて仕方が無かった。

確かに、神と崇められた主人公が倒されるのは為政者打倒ととれないこともないし、聖書の創世記を汚濁に満ちたものに改変した内容は冒涜的と言えないことも無いのだが、そもそもが意味を拒否したこの物語に、それらは枝葉でしかない。それよりも、監督アンジェイ・ズラウスキーの、とめどもなく吐き出される狂気の在り方のほうに、果てしなく驚異を覚える作品なのである。この『シルバー・グローブ』は、カルト映画の世界に新たな一章を書き記した、恐るべき作品ということができるだろう。

参考記事 

『シルバー・グローブ』スチール&オリジナル・ポスター

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『シルバー・グローブ』予告編 (とんでもないことになってるので是非観て欲しい)

DVDなどなど
シルバー・グローブ [Blu-ray]

シルバー・グローブ [Blu-ray]

 
アンジェイ・ズラウスキー Blu-ray BOX

アンジェイ・ズラウスキー Blu-ray BOX

 
ホドロフスキーのDUNE [Blu-ray]

ホドロフスキーのDUNE [Blu-ray]

 
ストーカー [Blu-ray]