運命に引き裂かれてゆく二人の兄弟~映画『Gunga Jumna』

■Gunga Jumna (監督:ニティン・ボーズ 1961年インド映画)

1961年に公開され大ヒットしたインド映画『Gunga Jumna』はとある農村で生まれた仲睦まじい二人の兄弟が、運命のいたずらにより引き裂かれてゆくという物語だ。主人公となる兄弟に『Mughal-e-Azam』(1960)のディリップ・クマールと彼の実際の兄弟であるナシール・カーン。ヒロインに『Sangam』(1964)、『Jewel Thief』(1967)のヴィジャヤンティマーラー。音楽は『Mother India』(1957)、『Mughal-e-Azam』、『Pakeezah』(1971)を手掛けた伝説のミュージシャン、ナウシャッド。なおディリップ・クマールはこの作品の制作・原案・シナリオも務めており、ヴィジャヤンティマーラーとは『Devdas』(1955)、『Madhumati』(1958)などで何度か共演している。

【物語】ハリプールの農村に住む寡婦ゴーヴィンディーにはガンガーとヤムナーという二人の息子がおり、貧しいながらも平穏な生活を続けていた。ある日ゴーヴィンディーは地主であるハリラムに窃盗の濡れ衣を着せられ、心労が祟って絶命する。

残された兄弟は青年となり、ガンガー(ナシール・カーン)は活発で粗野な男に、ヤムナー(ディリップ・クマール)は物静かで学問好きの男へと成長した。ヤムナーは勉学の為に街へ移り住むが、その間にガンガーは地主ハリラムの悪巧みにより投獄されてしまう。ガンガーの仕送りが途絶えたヤムナーもまたホームレスに身を落とすことになる。

出所したガンガーは復讐の為ハリラムを襲い、そのまま山に逃げ込み山賊の一味となる。一方ヤムナーはホームレスから身を救ってくれた警察署長の計らいで自らも警察官となる。そしてヤムナーは生まれた村へと帰ってくるが、それは山賊となった兄弟と警察官として対峙しなければならないという事だった。

貧困の中健気に生きる兄弟が、陰険で悪辣な地主からの度重なる嫌がらせに耐えかね、一方が已むに已まれず犯罪者となる。このモチーフはインド映画の歴史的名作、『Moter India』でも観る事ができる。映画『Gunga Jumna』にはインド農村部に生きる貧困層の怒りと悲しみが宿っているのだ。さらに血を分けた兄弟が善悪に分かれて対立することになるというモチーフは、この後アミターブ作品『Deewaar』(1975)、『Parvarish』(1977)へと受け継がれ、「怒れるプロレタリア」のヒーローを生み出すこととなる。

しかし、この物語は決してクライム・ストーリーというわけではない。この物語の主眼となるのは、力強く健気に生きる農民たちの姿であり、その彼らが暮らすどこまでもおおらかで光眩しい緑輝く大地の美しさだ。劇中メインとなるのはガンガーと村娘ダンノー(ヴィジャヤンティマーラー)との初々しい恋物語であり、二人が出会う度に演じられる、非常にエモーショナルな歌と踊りの妙だ。恋の駆け引きを思わせる村祭りでの二人の踊りは伝統美と躍動感に満ち溢れ、出所したガンガーがやっとダンノーと再会した際に演じられる歌と踊りは開放感に満ちた野山を背景に村人総出で行われ、その高揚は胸迫るものとなっている。しかしこれら生命感と深い愛情の様を示す描写の数々が、逆にクライマックスの恐るべき悲劇と光と影のように鋭利なコントラストを生み出すこととなるのだ。

映画のタイトルであり主人公二人の名前でもあるガンガ―、ヤムナーはお気付きかと思うがヒマラヤ山脈から流れ下るインドの聖河ガンジス川と、その支流であるヤムナー川を表わしている。一本の本流から二つに枝分かれするその川の姿に、一心同体の如く仲睦まじかった二人の兄弟のその運命が二つへと枝分かれしてゆく様が重ね合わされているのだろう。そしてその運命はあまりに過酷だ。川の流れと人の運命とを重ね合わせたインド映画には『Sangam』という名作があり、これもまたガンジス川ヤムナー川とサラスワティ川の如く枝分かれしてゆく運命の悲劇を扱ったものだった。川の流れのように抗えない人の運命、枝分かれしたまま二度と交わることの出来ない人生の悲劇、映画『Gunga Jumna』はそんな物語だった。

■『Gunga Jumna』の歌と踊り 


Ganga Jamuna - Evergreen Songs

■参考記事

1967年のデトロイト暴動を描く映画『デトロイト』はちょっとオレにはナニだったなあ

デトロイト (監督:キャスリン・ビグロー 2017年アメリカ映画)

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1967年に起こったデトロイト暴動を描く映画『デトロイト』に興味を持ったのは、もともとオレがテクノ・ミュージックの一ジャンル、デトロイト・テクノが好きだったからである。そしてデトロイト・テクノが生まれた背景には、このデトロイト暴動が密接にかかわっているのだ。

デトロイト・テクノデトロイト暴動の関連を説いた野田努による著作『ブラック・マシーン・ミュージック』をオレはかつてブログで紹介したことがある。ちょっと長いのだが引用してみよう。

デトロイトは、1901年にフォード自動車が設立され、世界で始めてのオートメーション方式を導入したことから、工業都市として飛躍的な急成長を遂げることになった。この成長を陰で支えたのが黒人労働者だった。ピーク時には600%の黒人人口増加率を数え、全米でも有数の黒人都市となる。ちなみにソウル・ミュージック・レーベルとして有名なモータウン・レコードはブラック・ビジネスにおけるゴールド・ラッシュを見込んでこのデトロイトに設立されたのである。

しかし、デトロイトフォーディズムの破綻、そして人種差別に対する相次ぐ暴動によって衰退し、スラム化してゆく。1967年のデトロイト暴動では国防軍のパラシュート部隊が導入され、戦車までが街を走ったという。暴動は街の6分の1を破壊した。街は焼かれ、街は崩れ落ち、街は廃虚になった。白人富裕層は街を逃れ、貧しい黒人だけが残ったデトロイトの市内は、黒人人口比率80%という全米で最も高い数字になっている。ゲットーは犯罪の温床となり、犯罪率の高さ、中でも殺人発生率では全米1位になるほど荒んだ街へと変貌してしまっていた。

例えばかつてモータウンの栄えたデトロイトを描いた映画作品には『ドリームガールズ』があり、現代のデトロイトを描いた作品には『グラン・トリノ』がある。また、デトロイトの寒々とした景色を背景に描かれたホラー作品には『イット・フォローズ』がある。

こうして並べてみると、デトロイトとは栄華を誇ったアメリカ高度経済成長の墓標であり、現在それ自体がひとつの空虚として存在している街なのかもしれない。

というわけで映画『デトロイト』である。不況と人種差別により怒りを募らせていた黒人住民たちの不満が警官隊の強権的な大量検挙を切っ掛けに遂に暴動へと発展する。物語はその中で、「黒人3人が死亡し、白人3人と黒人6人が重傷を負ったアルジェ・モーテル事件」へとクローズアップしてゆき、そこで行われた酸鼻を極める虐待と虐殺を描くこととなるのだ。

とまあ非常にショッキングな内容なのだが、実を言うと、非常につまらなかった。まずなにしろアルジェ・モーテルでの一部始終が長くて、うんざりさせられるのだ。確かにこのようなことが実際起こったことは分かった。それを克明に描くことによりその恐ろしさを徹底的に見せつけたいのも分かった。だが克明さにこだわるあまりに、演出にまるでメリハリがないのだ。大変申し訳ないのだが、飽きてくるのだ。

キャスリン・ビグロー監督作品というのはそもそもがメリハリに乏しい。話題になった『ハート・ロッカー』などその最たるものだろう。『ゼロ・ダーク・サーティ』は寒々しい国際社会の様相を上手く描いたとは思うが、この作品ですらも所々メリハリの欠けた部分が露呈する。キャスリン・ビグロー作品は緩急に乏しくエピソードの羅列に終始する演出が多過ぎるのだ。

この『デトロイト』にしても群像劇的に始まりつつ「アルジェ・モーテル事件」へと収斂してゆく演出を取るが、それがその後逮捕・裁判とその結果へとだらだらと流れることによって、エピソードの時間的配分のバランスが悪く、どこにクライマックスを持ってきたいのか理解し難いものになっているのだ。監督にとっては「全部が見せ場」なのかもしれないが、観ているこっちとしては「どこで終わらせたいの?」と焦れてくるのだ。

かつてはSFやアクション作を撮っていたというキャスリン・ビグロー監督だが、『ハート・ロッカー』『ゼロ・ダーク・サーティ』で問題作を撮って一山当てることに目覚めたのらしい。『デトロイト』はその流れにある作品なのだろうが、ただ社会や人間の暗部を抉り出せばそれで問題作一丁上りとはお手軽過ぎはしないだろうか。そんなわけで今作『デトロイト』はオレには退屈な”所謂問題作”でしかなかった。 

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寓話的な物語と深化した映像美を誇る歴史大作 / 映画『Padmaavat』

■Padmaavat (監督:サンジャイ・リーラー・バンサーリー 2018年インド映画)

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『Devdas』(2002)、『Goliyon Ki Raasleela Ram-Leela』(2013)などで悲劇的な愛を究極の美術で描くインド映画監督、サンジャイ・リーラー・バンサーリーによる新作が遂に公開された。タイトルは『Padmaavat』、前作『Bajirao Mastani』(2015)に続きまたもや豪華絢爛たる歴史絵巻を披露することになる。出演はバンサーリー映画の常連となったディーピカー・パドゥコーンとランヴィール・シン、さらにシャーヒド・カプールがバンサーリー映画初出演となる。

上映はまたしてもSpecebox Japanによる日本におけるインド映画上映会だった(英語字幕)のだが、今回はなんと3D上映があると聞き、インド映画の3D作品などそうそう観られるものではないだろうと3D上映作を観ることにした。

物語の舞台は14世紀初頭の北西インド、ラージャスターンにある王国メーワール。この国の王ラタン・シン(シャーヒド・カプール)の王妃パドマワティー/パドミニ(ディーピカー・パドゥコーン)は絶世の美女の誉れ高く、その噂はハルジー朝のスルターン、アラーウッディーン・キルジー(ランヴィール・シン)の耳にも届いていた。アラーウッディーンは兵を挙げメーワール王国に進軍、パドミニを一目見させろとラタン・シンに迫る。これを拒んだラタン・シンに狡猾で知られるアラーウッディーンはある計略を巡らすのだ。

作品は1540年にスーフィー詩人マリク・ムハンマド・ジャヤシによって書かれた叙事詩『Padmavat』を基に製作された(映画タイトルは『Padmaavat』と”a”がひとつ多い)。『Padmavat』自体は13世紀にあった史実を基にしているとも言われるが、歴史家の間では論議を呼んでいるという。

要点を挙げながら感想を書いてみよう。まずなにより今回もその美術は圧倒的なまでに荘厳かつ美麗を極め、バンサーリー監督の面目躍如となっている。前作『Bajirao Mastani』も歴史絵巻だったが、今作ではさらに地方色・民族色が濃厚で、よりエキゾチックな美術を楽しむことができる。思わず息を呑んでしまうほど驚異的な美術設計をされたシーンが幾つもあり、セルゲイ・パラジャーノフ監督作『ざくろの色』に通じる芸術映画の領域に足を踏み込んでいさえすると思う。それとは別に冒頭における森でのパドミニの鹿討ちのシーンは非常にファンタジックな味わいを見せ、コスチュームプレイのみに留まらない美術の冴えを感じさせた。

3D効果は想像以上によかった。これはバンサーリー作品がもともと箱庭的なつくりをしているせいで、室内や城郭内など奥行きの限定されたシーンが実に3D映えするのだ。さらに俳優たちを全身像で撮影することにより、彼らがあたかも目の前の舞台に立っているかの如き錯覚さえ覚えさせてくれた。これは今まで観た3D映画の中でも相当素晴らしい部類に入っているように思う。反面、3D上映の欠点である画面が薄暗く見えてしまう部分はいかんともしがたく、若干の欲求不満は感じたが、それでも「3Dインド映画初体験」という面白さのほうが勝った。

物語はどうか。「絶世の美女を巡る二つの王国の睨み合い」といったその骨子はあまりにもシンプルで、どこか寓話のようですらある。世界各地にある「絶世の美女を巡る物語」の一つの変奏曲のようにすら感じる。物語展開もそれぞれに波乱やスペクタクルもありつつ基本的に二つの国を行き来するだけといった流れであり、若干の単調さを感じた。また、凛とした貞女パドミニ、泰然たる王ラタン・シン、獰猛狡猾なるアラーウッディーンといったそれぞれのキャラはこれも寓話的で分かりやすいが逆に判で押したように定型的で破綻が無く、人物像としての膨らみや面白味には欠けるきらいがある。モノローグの多用も押しつけがましく感じた。ラストは衝撃的だが、前時代的な悪しき因習を美徳の如く持ち上げているだけのようにも見える。16世紀インドで書かれた物語だから致し方ないのか。

総体的に見るなら「バンサーリー美術の深化」と「物語性の後退」といったアンビバレントな二つの感想を持つこととなった。実の所、もともとバンサーリーは作話能力に難があり、それを素晴らしい美術で凌駕し補う形で完成させた映画の多い監督だというのがオレの意見だ(『Saawariya』などその最たるところだろう)。今作ではそれがかなり極端に現れる形となったが、物語の寓話性がそれをあまり感じさせず、結果的に非常に完成度の高い作品だということができるだろう。だが、歴史絵巻はもうこのぐらいでいいような気がするなあ。 

参考 :“Padmaavat”の基礎知識☆ロマンス小説家・吉咲志音 × Masala Press代表アンジャリ

masala-press.jp


Padmaavat | Official Trailer | Ranveer Singh | Deepika Padukone | Shahid Kapoor

 ■参考:サンジャイ・リーラー・バンサーリー監督作品レヴュー一覧 

遥かなるパキスタン~映画『Garm Hava』

■Garm Hava (監督:M・S・サシュー 1973年インド映画)

1947年、イギリス議会が可決したインド独立法は、ヒンドゥー教徒のインド連邦とイスラーム教徒のパキスタンとの分離独立という形で施行された。これによりインド/パキスタン双方で、住民の大移動と宗教的対立による大混乱が生じる。国境を超えた人の数は1200万とも1500万とも言われ、その途中飢餓や略奪により多くの人命が失われたばかりか、宗教的対立による迫害と衝突は流血の大惨事へと発展したという。これら印パ独立の際の悲劇を描く映画作品は枚挙に暇がないが、最近では映画『ミルカ』(2013)でその悲劇が描かれることになる。

しかし、印パ独立時の住民大移動は、全てが全て死と隣り合わせの災禍に満ち溢れていたのだろうか。1973年に公開されたウルドゥー語監督M・S・サシューによる映画『Garm Hava』は、印パ独立の際にインドからパキスタンへの移住を望んだ、あるイスラーム教徒一族が抱える様々なジレンマを描く物語である。

《物語》時代はガンジー暗殺間もない1948年、舞台となるのは北部インド連合州(現在のウッタル・プラデーシュ州の一部)の都市アーグラ。ここに靴製造業を営む大家族、ミルザ家があった。イスラーム教徒であるミルザ家はパキスタンへの移住を考えており、そのうち兄ハリムは早々とかの地へと渡ってしまう。しかし弟のサリム(バルラージ・サーヘニー)はこの混乱がそのうち収まることを信じており、さらに老齢の母を抱え、移住にはなかなか踏み切れないでいた。しかし周辺のヒンドゥー教住民のイスラーム教住民への風当たりは次第に強くなり、銀行すらサリムへの融資を渋るようになる。そしてある日、ハリムが名義変更していなかったミルザ家の家屋は政府に接収されることになり、ミルザ家は路頭に迷うことになってしまう。

この物語で描かれるのは、分離独立に際してつとめて理性的に人間的にふるまおうとした一人のイスラーム教徒住民の心情である。映画の中で舞台となる町は最初さほど混乱したものとして描かれない。むしろ町は今までと何一つ変わらない日常が連綿と続いているだけであり、そこに住む住民もいつもと変わらぬ毎日を生きているように一見見える。分離独立という突然の事態に、ヒンドゥー教徒イスラーム教徒、双方が「これからどうしたらよいのだろう?」と考えあぐねている最中なのだ。

しかし、物語が進むにつれ、じわりじわりとイスラーム教徒住民への侮蔑と差別とが滲み出してくる。かつては隣人として声を掛け合っていた者同士のその声のトーンが冷たくなる。「お前は何故まだこの土地にいるのだ」と言わんばかりの横柄な態度を取り始める。この、ゆっくりと静かに広がってゆく差別の空気がとても恐ろしい。こうして物語は、大混乱や大殺戮とはまた別の形で市井の人々が辿るもう一つの印パ独立の悲劇をあぶり出す。それは、「不寛容」と「頑迷」と「狭量」という名の悲劇だ。そしてそれは冒頭描かれるガンジー暗殺に呼応する言葉でもあるのだ。

この物語では当時の在印イスラーム教徒が抱えることになる様々な困難を、あたかもひとまとめにしたかのようにあらゆる事件が起こる。それは外部からの圧力だけではなく、移住に伴い明るみに出る家庭内部の事情でもある。主人公サリムの兄ハリムは、大層な政治的発言を繰り返しながらも、弟も母親も捨て、妻子と共にさっさと移住をしてしまう。ハリムの老齢の母は、先祖代々守り続けてきた土地から頑として動こうとしない。

さらにハリムの息子カズムは、サリムの娘アミナと婚約していたが、この二人はカズムの移住により引き裂かれることになる(しかし思ったがいとこ同士の婚約ということなのか?)。また、恋人の為インドとパキスタンを行き来していたカズムはスパイ容疑で逮捕される。そして主人公サリム自身も、自らがインドで拡げてきたビジネスを全て捨て去ることに後ろ髪引かれる思いなのだ。こうしてこの作品には、分離独立に翻弄される人々のあらゆるドラマが集約されるのだ。

そういった受難の中、クライマックスで主人公サリムの取った行動とはなんだったのか。それは怒りなのか、憎しみなのか、それとも新たなる決意だったのか。少なくともサリムはそこで、彼自身の持つ楽観的な世俗主義と理想主義を捨て、現実と対峙することになったのだと思う。そしてそこで彼は初めて周りに振り回されることなく「自分はどう生きたいのか、どう生きるべきなのか」を選択しようとする。こうして映画『Garm Hava』は苦々しく、そして困難に満ちた現実を描きながら、印パ独立の只中にいた、多くの市井の人々の心情を浮かび上がらせてゆくのだ。

オレはまだ本当のモフを知らない / 映画『パディントン2』

パディントン2 (監督:ポール・キング 2017年イギリス/フランス映画)

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モフモフとフカフカの世界

オレの相方はモフモフフカフカしたものが好きである。モフモフした動物。フカフカした毛布。毛並みがふわっと柔らかいもののことだけではなく、手触りが優しいものもこの範疇に入るのらしい。

相方と付き合い始めの頃、この「モフモフフカフカへの愛着」というのがまるで分らなかった。理解できないのではなく、それまで意識したことがまるでなかったのでピンとこなかったのだ。昔のオレは動物を愛でるなんてことはなかったし、だから毛並みのよい小動物を撫でてその感触を楽しむなんてしたことがなかった。

カフカした毛布やフカフカの布団やタオルなんてものにも別段好みは無かった。そりゃあ柔らかいことにこしたことはないが、毛布や布団は保温できればいいしタオルは顔や体が拭ければそれでよかった。洗濯で柔軟剤なんて使う必要も感じなかった。要するに「肌触り」というものに鈍感というかそこに意識が無いのだ。

だからモフモフの動物やフカフカの布団やタオルに目の色を変える相方の事が最初よく分からなかった。だが付き合いも長くなるとすっかり感化されて、相方と一緒に動物園に行っては動物をモフモフとモフりまくっているオレである。引っ越しした時も「クッションか座布団を買うべきだ」と言われ、実際買ってみると確かに居心地がいいのが分かった。

モフへの遠い道

ところでオレは相方から「クマ」という愛称で呼ばれている。クマのように狂暴だったり毛むくじゃらだったりするからではない。クマのようにドテッとしているからなのだそうだ。そしてたまにオレの脇腹の脂肪をつまんで「モフッ」とか言っている。クマであるオレを一匹の動物として愛でてくれているのかもしれない。それとも脂肪の多さをからかっているだけなのかもしれない。きっと両方だろう。

そんなモフモフのクマの子供が主人公の映画が『パディントン』だ。児童文学が原作なのらしいが、映画では非常に細かな毛並みを持ったCGの子熊が登場し、実写の人間たちとからんでゆくのだ。

パディントン』の1作目は日本では2016年の1月に公開されて、興味はあったのだが忙しくて観に行けなかった。その後ブルーレイを購入し、相方と一緒に観た。これはとっても傑作で、劇場で観とけばよかったな、とちょっと後悔した。主人公となるクマのパディントンはちょっとおっちょこちょいで変な所で格式張っていて、そしてとても愛すべきキャラだった。コロコロした体形やモフモフした毛並みも可愛らしかった。

こんなクマのパディントン、当然相方のお気に召しただろうと思い、観終った後「モフモフで可愛かったね!」と聞いてみたら、いや、あれはちょっと違うと言う。クマのパディントンはモフモフではないと言うのだ。この後特に突っ込んで聞かなかったけれども、相方の中では幾ら毛並みが豊かだろうとモフモフとモフモフでないものがあり、そしてパディントンはモフモフではない部類に入ってしまうらしいのだ。

オレにはその線引きがよく分からなかったが、これは常にモフを意識し生活の中でモフを追及してきた相方ならではの明哲な論理がその中にあるのだろう。そしてモフに関してはまだまだひよっ子であるオレはその領域に達しておらず、だから相方の意見がよく分からなかったのだろう。即ち真のモフへの道はまだまだ遠く、オレはまだ本当のモフを知らない、ということなのだろう。

パディントン2

さてそんな『パディントン』の続編が公開された。そして今度こそは劇場で観た(吹き替えだった)。周りはほとんど親子連れや子供たちばかりで、カップルがちょろちょろ、50過ぎのオッサンはオレぐらいなものだったが、構いはしない、オレはクマのパディントンが好きなのだ。映画館ではパディントンのぬいぐるみ人形まで買っちゃったよ。これは部屋に飾るんだ。

映画は例によっておっちょこちょいのパディントンが登場し、今作ではあらんことか窃盗犯に間違われて刑務所に入れられてしまう。そしてパディントンがロンドンで世話になっているブラウン家の人々がその真犯人を追う、という物語になっている。真の窃盗犯は財宝の在り処が秘められた飛び出す絵本を盗んだのだが、これにはロンドンの名所が描かれていて、その絵本の中のロンドンをパディントンとクマのルーシー叔母さんが散策するファンタジックなシーンにはひたすらうっとりさせられてしまった。オレは実はこういうのにとっても弱いのだ。

真犯人を追うブラウン家のパートは、ブラウン家の人々が少々風変わりな事もあってとてもコミカル。オレはブラウン家のお父さん役ヒュー・ボネビルがとてもお気に入りで、これはオレが大ファンだったTVドラマ『ダウントン・アビー』の当主役をこのヒュー・ボネビルが演じていたからなのだが、この人が画面に出てくるだけでなんだか安心してしまう。また、ロンドンの街並みがとても美しく描かれていてこれにも心奪われた。

しかしやはり楽しいのはパディントンの活躍する刑務所パートだ。そもそも子供たちが多く見るだろうドラマで主人公が刑務所なんていうのも随分思い切ったことのように思えるが、殺伐とした刑務所の受刑者たちがパディントンの登場で明るく楽しくファンシーに様変わりしてしまうのだから驚きだ。やはりコグマ効果と言わざるを得ない。ここでのエピソードの組み立て方がとても巧くて見せるものになっている。クライマックスにはアクションも挿入され、これも実に小気味いい。

そんな訳でストレートな物語展開から1作目以上に楽しかった『パディントン2』だった。この調子で3作目4作目と行けるんじゃないか。それまでオレは相方の理想とする真のモフを探求しながら、新作公開を待つことにしよう。

( ↓ 劇場で購入したパディントン人形)

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映画『パディントン2』予告篇 

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クマのパディントン

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