『マイティ・ソー バトルロイヤル』は銀河のアホアホ兄弟が主役だったッ!?

マイティ・ソー バトルロイヤル (監督:タイカ・ワイティティ 2017年アメリカ映画)

f:id:globalhead:20171105154856j:plain

マーベル・ヒーロー『マイティ・ソー』のシリーズ3作目『マイティ・ソー バトルロイヤル』でございます。

改めて紹介するまでもないと思いますがこの「ソー」、北欧神話の神「トール」を題に採り、神々の国アスガルドの王子ソーが様々な異世界で"鈍器のようなもの"通称ニョニョルン(……こんな名前だったっけ?)をぶん回しながら宇宙の平和のために戦っちゃうよっ!?というスーパーヒーロー作品なんですな。あ、これも書くまでもないことでしょうが例の「マーベル・シネマティック・ユニバース」の一環となっているキャラクターでありストーリーであるというわけです。

で、この3作目なんですが、「神々の国アスガルドラグナロクがやってきちゃうよ!?」というお話になっています。ラグナロクってぇのは北欧神話における終末の日のことでありまして、食べログとかオンザロックとはそれほど深い関係はありません。

ここで「上手い」と思ったのは描かれるのが「アスガルドの危機」であって「地球の危機」じゃないってことですね。どう上手いかというと、地球の危機だったらアベンジャーズのそううそたる皆様が大挙してやってきて解決しちゃうじゃないですか。でもこれはマイティ・ソーが主演の映画、彼が中心になって活躍するにはこの設定が最高に適しているじゃありませんか。

さてお話が始まりわくわくしながら観ていますと、なんだか「アレ?」と思わされてきます。なんかこー、ギャグが多いんです。「お前はデッドプールか?」と思っちゃうほどボケまくるし、弟でありかつての宿敵だったロキが登場すると今度は二人で掛け合い漫才なんですよ。

いやあ、それにしてもロキ、キャラ変わったなあ。昔は歌舞伎町の客引きみたいなテラテラした頭をしたギンギラギンのルサンチマン野郎だったのが、今作ではゲゲゲの鬼太郎ねずみ男並みのセコイ小悪党ですよ。おまけにソーに減らず口叩きながら華麗なずっこけを演じており、もう画面にロキが出て来るたびに「今度はどんなボケをかましてくれるのか」とワクワク感が止まらなくなってきます。

その後の展開もギャグとドタバタ、ボケとツッコミのオンパレードです。とある辺境の惑星でハルクと出会っちゃうソーですが、脳筋ソーと脳筋ハルク、脳筋同士の限りなく頭の悪いやりとりに観ているこちらの頭が「神々の黄昏」状態になっちゃうぐらいです。二人の出会う惑星のボスをジェフ・ゴールドブラムが演じてますが、惑星の統治者のくせに呉服問屋の2代目ボンボン程度にしか見えないのがまた限りなく悲しい……。

おまけに舞台となる惑星は50~60年代パルプSFにしか出て来なそうなひたすらキッチュで悪趣味なコテコテのスペースオペラ風味。「え、今観てる映画、『フラッシュ・ゴードン』じゃないよね?」と思っちゃったぐらい。音楽までレトロな80年代エレクトロポップ/デジロックの音色を響かせ(DEVOのマーク・マザーズボーが担当らしい)、この確信犯的な時代錯誤感が逆に清々しいと思わせてしまうほど愉快痛快なんですな。

こんな「スーパーヒーロー大喜利な世界観の中でたった一人怪気炎を上げているのが今回の宿敵、死の女神ヘラ。しかし最強&最凶の敵の筈である彼女がそもそもソーとロキの姉、という段階で既に出オチ確定しているばかりか、常にいちゃいちゃしまくってるソー、ロキ、ハルクの前では「ハブられて逆ギレしているあんまり関わりたくない人」にしか見えず、果てしなく浮きまくっているのが哀れ。それにしてもヘラ、戦闘形態の時のあの頭の角、重たくねえのかなあ……。

そう、今作『バトルロイヤル』、「アスガルドの危機!」だの「史上最恐の敵!」とかデカイ花火をぶちあげながら、実際やってることはひたすら馬鹿馬鹿しいドタバタと脳筋まみれのスペースオペラ展開で、にも関わらずそれが一周回った楽しさを感じさせてるんですよ。

これ、『ソー』の1作目でやってたら間違いなく叩かれてたでしょうが、これまでのシリーズ、そしてアベンジャーズでの、ソーというキャラの蓄積や立ち位置が完成されていればこその大いなる脱線ぶりだったのでしょう。アベンジャーズ絡みはシリアスになり過ぎてなんだかつまらなく思えてきたのですが、今回の『バトルロイヤル』を見るにつけ、「むしろスーパーヒーロー映画なんてこのぐらいの馬鹿馬鹿しさでいいんじゃない?」とすら思わされました。

というわけで『マイティ・ソー バトルロイヤル』改め『宇宙のアホアホ兄弟・ソーとロキの凸凹銀河旅行』の一席でありました! 


「マイティ・ソー バトルロイヤル」日本版本予告 

タイガー・シュロフはボンクラ・インド映画ファンの救世主となるか~映画『Munna Michael』

■Munna Michael (監督:サッビール・カーン 2017年インド映画)

f:id:globalhead:20171007175826j:plain

《目次》

 インドのアクション・ダンス映画『Munna Michael』登場!

ヤツの名はムンナ(タイガー・シュロフ)、滅法喧嘩に強い彼は同時に超絶的なダンス・センスも兼ね備えていた。ある日そんなムンナにギャングのボス、マヒンドラ(ナワーズッディーン・シッディーキー)が声を掛ける。喧嘩の腕を買われたか、と思ったら大間違い、なんとマヒンドラムンナにダンスを教えてほしいという!?ダンスを通じてダチとなったムンナマヒンドラはあることを打ち明ける。彼はクラブ・ダンサーのドリー(ニディ・アゲーワル)を愛しており、恋の懸け橋になって欲しいという。こうしてムンナはドリーに近付くが、そこで思わぬ番狂わせが待っていた!

2017年公開のインド映画『Munna Michael』はダンスを通じてギャングのボスと義兄弟になってしまう主人公を描いたアクション映画だ。主演は我らがヒーロー、タイガー・シュロフ!(なんと彼は2018年公開予定のハリウッド映画『ランボー』リメイクの主演に堂々ボリウッド映画界から抜擢されたというアナウンスが!さらにインドで公開された『スパイダーマン:ホームカミング』の吹き替え声優も彼がこなしている)

f:id:globalhead:20171007191430j:plain

そして共演にインドの名俳優ナワーズッディーン・シッディーキー!

f:id:globalhead:20171007191445j:plain

ヒロインを演じるニディ・アゲーワルはモデル出身の超美人ちゃんだ!

f:id:globalhead:20171007191456j:plain

さらに監督は『Heropanti』(2014)、『Baaghi 』(2016)とタイガー・シュロフ映画でコンビを組んできたサッビール・カーンとくればこれはもう面白さは保証付きだ!

シックスパックの暴れ者ダンサー、タイガー・シュロフ!

この『Munna Michael』、アクションをこなしたら現在ボリウッド映画界で右に出る者のいない男タイガーが、その抜群の身体性能でもってキレッキレのボリウッド・ダンスも踊っちゃう!という一粒で二度おいしい作品になっている。もともとタイガーはダンスも素晴らしい俳優だったが、この作品ではそれが「ダンス大会への出場」という形で大きくフィーチャーされているというわけだ。引き締まったシックスパックの腹筋にモノを言わせバッキバキに踊るタイガーに君も惚れるがいい!!


Main Hoon HD video song in Munna Michael latest upcoming movie of TIGER SHEROF

そして今作をタイガーの腹筋以上に引き締めているのがナワーズッディーン・シッディーキーの名演だ。血も涙もないギャングのボスと思わせながらダンス好きという意外な面を見せ、主人公ムンナと特訓しながら拙いダンスを踊るマヒンドラのキャラはコミカルであると同時に人間味溢れたものとして観客に受け入れられるだろう。こういった二面性を持つ複雑なキャラを深みがあり説得力のあるものとして演じることができるのがナワーズッディーンの素晴らしさだ。シャー・ルク・カーンと共演した『ライース』でも思ったが、彼の名演が映画の面白さを3割4割と底上げしてるのだ。

タイガー・シュロフはボンクラ・インド映画ファンの救世主となるか

「冴え渡ったアクション」「キレッキレのダンス」「美麗なヒロイン」「個性的な脇役」「シンプルで分かり易いストーリー」と面白さ要素満載の映画『Munna Michael』だが、実を言うと本国インドで興行成績や評価が芳しくないと知って驚いた。さらに言うと、IMDbによるタイガー・シュロフ映画評価はすこぶる悪い。

IMDbによるタイガー・シュロフ映画評価
Heropanti (2014) 5.4/10
Baaghi (2016) 5.2/10
A Flying Jatt (2016) 3.5/10
Munna Michael (2017) 3.3/10

実の所他人の評価などどうでもいいのだが、これを見て分かるのはタイガー・シュロフ映画の完成度の低さではなくIMDbというのがいかに見る目の無い連中が寄せ集まっている役立たずのサイトであるかという事実だけである。

これらタイガー・シュロフ映画をオレなりに点数をつけるとするとこうなる。

オレのタイガー・シュロフ映画評価

Heropanti 7/10
Baaghi 9/10
A Flying Jatt 9.5/10
Munna Michael 8/10

いずれも高得点であり、タイガー・シュロフ映画がいかに優れ楽しめるものであるか的確な評価を下していると自負している。すなわちタイガー・シュロフ映画は観るべき映画のみであり、インド映画をこれから観ようとしている方は是非タイガー・シュロフ映画に触れてほしいと思うのである。

もう少し客観的に書くと、タイガー・シュロフの映画評価が低いのは多分、「アナクロである」「知的でない」「観終った後何も残らない」ということなのだろうという気がする。

例えば「アナクロ」ということであれば、確かに「歌って踊ってばかり」で「主人公が神がかりに強いアクション」という映画はボリウッド映画では減っているように思える。これらは「古臭い」スタイルであり、現在のボリウッドのメインストリームではないのだろう(しかし一方、タミル映画ではこれらのスタイルが今でも十分尊重されているように感じる。タミル映画詳しくないから断言できないが)。

けどさ、極東に住む「なんちゃってインド映画ファン」の一人としては、これら要素はむしろ大いに歓迎したいんだよ!もっと歌って踊って欲しいし、もっとガッツンガッツンアクションして欲しいんだよ!アナクロでも知的でなくても観終って何も残んなくても全然構わないんだよ!こういう映画を日本では「ボンクラ映画」という呼び方をしたけど(もう死語なのか?)、オレはインド映画はボンクラでも十分だし、むしろボンクラであってほしいんだよ!なぜならオレは「ボンクラ映画」が大好きだからだよ!

そんな意味では「ボンクラ映画」の王道を孤高に突き進むタイガー・シュロフ映画はこれからもボンクラであってほしいしもちろんオレは観つづけるし応援し続けたいんだよ。だからタイガー・シュロフの名はもっと広まって欲しいし人気が出てほしいし、映画もガンガン作られて沢山の人が楽しんでほしんだ。タイガー・シュロフは、ボンクラ・インド映画ファンの救世主なんだよ。

『Munna Michael』予告編


Munna Michael Official Trailer 2017 | Tiger Shroff, Nawazuddin Siddiqui & Nidhhi Agerwal

見よ!タイガー・シュロフの華麗なるフィルモグラフィーを!

『ブレードランナー』『エイリアン2』に参加したシド・ミードのSF映画コンセプトアートの数々~『シド・ミード ムービーアート』

シド・ミード ムービーアート THE MOVIE ART OF SYD MEAD

シド・ミードといえばなんといっても『ブレードランナー』のコンセプト・アートを描いた男として名を馳せるが、彼は他にも『スタートレック』『2010年』『エイリアン2』など数々のSF映画作品においてそのアイディアを提供している。さらに、ついこの間公開された『ブレードランナー 2049』にも参加しているのだ。

シド・ミード

世界のデザイン界で今最も注目を集めている未来工学デザイナー。フォード、USスティール、ボルボクライスラーNASAなどのデザインコンサルタントとして活躍する一方、『ブレードランナー』『2010年』などのSF映画の近未来的デザインでも有名。(シド・ミード『Oblagon』(1985年刊)より)

 この『シド・ミード ムービーアート』は、『ブレードランナー 2049』公開に合わせて発売されたのらしく、巻頭には『2049』監督のドゥニ・ヴィルヌーヴによる胸熱な序文まで添えられている。ただし『2049』の為の作品は数点のみであり(廃墟のラスベガスのシーンだったかな)、今回の参加はここのみにとどまったのかもしれない。

とはいえ、『シド・ミード ムービーアート』は見所満載な作品集であることは変わりない。実際目を通してみると、あるわあるわ、あんなSF映画こんなSF映画、「ええ?これにも参加していたの!?」というコンセプトアートが目白押しなのだ。

シド・ミード ムービーアート』掲載作一覧

スタートレック』(1979)
ストレンジ・デイズ/1999年12月31日』(1995)
ザ・コア』(2003)
『TOPEKA(トピカ)』(未製作プロジェクト)
エイリアン2』(1986)
『2010年』(1984)
『BELITTLED(ビリトルド)』(未製作プロジェクト)
ブレードランナー』(1982)
『EKTOPIA(エクトピア)』(未製作プロジェクト)
『ESCORT(エスコート)』(未製作プロジェクト)
エリジウム』(2013)
『THE JETSONS(宇宙家族ジェットソン)』(未製作プロジェクト)
『JM』(1995)
『LUNAR SCOUT COMMANDOS(ルナ・スカウト・コマンドーズ)』(未製作プロジェクト)
『トロン』(1982)
『グランオデッセイ(壮大な冒険の旅)』(2005)
M:i:III』(2006)
ミッション・トゥ・マーズ』(2000)
『ショート・サーキット』(1986)
サウンド・オブ・サンダー』(2005)
SCHIZOID(スキゾイド)』(未製作プロジェクト)
『SANDBLAST(サンドブラスト)』(未製作プロジェクト)
『FORBIDDEN PLANET(禁断の惑星)』(未製作プロジェクト)
『YAMATO2520』(1994)
ブレードランナー2049』(2017)

 個人的には『M:i:III』(2006)の「変装用顔面皮膚製造機」もシド・ミードの作だったと知ってびっくりした。『JM』(1995)のバイオメカニカル・ドルフィンや、『エリジウム』(2013)のスペースコロニーのデザインもシド・ミードだったとは!?日本のアニメ『YAMATO2520』(1994)にも参加していたんですねー。『サウンド・オブ・サンダー』(2005)は実は観ていないんだけど、シド・ミード参加と知って突然観る気になった!

他にも様々な「未製作プロジェクト」のコンセプトアートがあり、これらの映画がもし製作されていたらどんなものになったんだろう……と想像するのもまた楽しい。

シド・ミードのデザインは彼の出自がそもそもインダストリアルデザインから来ているから、シャープで未来的でキラキラしていてそしてゴツい。シャープとゴツいは語義矛盾かもしれないが、線がはっきりしていてさらに重量感があるって感じかな。そしてデザインの背景には例え架空のものだとしても実用性の在り方やそれが使用される環境まで考えられている(まあ『スタートレック』の宇宙物体「ヴィージャー」ぐらいになるとまた違ってくるが)。要するに"ホンモノっぽい"のだ。そんな部分でミードのデザインは一歩抜きんでているという事なのだろう。

そしてやはり作品集中最大の60ページものページを割いた『ブレードランナー』のコンセプトアートの数々が兎に角もう圧巻だ!実はシド・ミード作品集は既に1985年に『Oblagon―Concepts of Syd Mead』が発売されていて(日本語版は絶版)、こちらでも『ブレードランナー』アートは紹介されていたが、紹介点数は『シド・ミード ムービーアート』のほうが遥かに凌駕する!『Oblagon』を持ってたオレがびっくりしたぐらいだから、『ブレードランナー』好きはもう書店に走るかアマゾンでポチるか2つの選択肢しか残されていないぞ!

f:id:globalhead:20171013133008j:plain

f:id:globalhead:20171013133039j:plain

f:id:globalhead:20171013133055j:plain

f:id:globalhead:20171013133107j:plain

シド・ミード ムービーアート THE MOVIE ART OF SYD MEAD

シド・ミード ムービーアート THE MOVIE ART OF SYD MEAD

 
Oblagon―Concepts of Syd Mead

Oblagon―Concepts of Syd Mead

 

 

孤独と自己存在についての物語~映画『ブレードランナー 2049』

ブレードランナー 2049 (監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ 2017年アメリカ映画)

f:id:globalhead:20171029154918j:plain

《目次》

 35年振りの続編『ブレードランナー 2049』

1982年に公開されたSF映画ブレードランナー』の続編、『ブレードランナー 2049』が遂に公開された。そしてIMAX3Dで観ることになったその作品は、予想をはるかに上回る、とてつもない傑作だった。これは伝説化した1作目を超える新たな伝説となる作品なのではないか。原作と1作目の両方のファンである自分にとって非常に感無量である。1作目から35年か。あれから35年、生きていて本当に良かった。

さてここでは1作目『ブレードランナー』を踏まえ、『2049』とはなんだったのか、その根幹的なテーマの在り方を探ってみたい。ネタバレは避け、物語には一切触れていないつもりだ。

生の虚しさと儚さ

ブレードランナー』ほどの物語ともなると幾つもの研究や考察や言及があるだろう。それは物語が様々な要素を孕んでいて、そのどれもがひとつの問い掛けであったり現実の諸相のカリカチュアであったりするからだ。『2049』にしても、どこか哲学的である意味煙に巻くようなセリフが登場し、それらの意味はいかようにでも解釈することができる。

だが、ここでは『ブレードランナー』の物語をもう少し卑近に考えたいのだ。例えば1作目の物語とはなんだったのか。それは「神殺し」の物語である。造物主である人間に対する被造物であるレプリカントが叛逆を起こす。そこには神話的な意味合いもあるだろう。だが「神殺し」がテーマ、では抽象的過ぎないか。だからこう考えてはどうだろう。限られた寿命を持つ存在、それはレプリカントではなく我々人間の事なのだ、と。

人間は生まれ、限られた寿命の間になにがしかの体験をし、そして死ぬことによって消え去ってしまう儚い存在だ。では消え去ってしまうだけのこの短い人生に、いったい何の意味があるのだろう?『ブレードランナー』1作目のラストで反逆レプリカントのリーダー、ロイ・バッティが呟いた言葉にはそんな意味が含まれていたのではないか。「生の虚しさと儚さ」、『ブレードランナー』1作目が描いたのはそんなことだったのではないか。

孤独と自己存在への不安

さらに、『ブレードランナー』が描いていたのは「大勢の人の住む都会で自分は一人ぼっちで孤独だ」という事と、「こんな自分ってなんなんだろう、何者なんだろう」という事だった。『ブレードランナー』に登場する街並みはあんなにごみごみと人で溢れているのに、登場人物たちは誰もが孤独で誰とも繋がりを持たない。誰もが広々としたフラットにたった一人で生活する。「人間かレプリカントか」という不安、「レプリカント処理」という徒労に塗れた虚無的な仕事の遣り切れなさも、自己存在の不安定さをあからさまにする。

「生の虚しさと儚さ」「生きる事の孤独」「自分が何者であるのかという不安」。これら『ブレードランナー』の孕むテーマは、人が生きる上で直面する普遍的な問い掛けであり、不安ではないか。そしてだからこそ、『ブレードランナー』の物語は我々の心を捉え、歴史を超えて語り継がれてきたのではないか。

格差社会

そして、監督を変え、35年の月日の末に完成した『2049』も、この根底となるテーマは全く変わっていない。それを活かせていたからこそ『2049』は1作目の世界観ときっちりリンクした正統な続編として完成したのだ。なおかつ、マッチョなリック・デッカードよりも線が細くナイーヴな捜査官Kを主役に据えることで、根幹となるテーマがより深化されさらに鮮やかに浮き上がってくることになる。

さらに『2049』の物語に加味された新たなテーマは「格差社会」だ。一つは地球を逃れ新天地の植民惑星で暮らす者たちと、汚濁と衰退に塗れた地球に暮らさざるをえない者たちという格差。そして汚濁の地球の都市における、人間と"まがいもの"であるレプリカントとの格差。さらに、都市部と遺棄された廃墟の中で暮らす者たちとの格差。「格差社会」は日本を含む今日の現実社会でも問題となっている現象であり、この部分に『2049』の今日性がある。

迫真のSF世界

こうしてみると、『2049』は1作目の続編である以上に、1作目のアップグレード版でありアップコンバート版であり、更に今日的な視点を挿入したアップトゥデイト版ということができるではないか。

それは物語だけではない。スクリーンに映し出されるありとあらゆるSFイメージが、そのSF的世界観が、圧倒的な迫真性で眼前に迫ってくるのだ。これらはもはや2017年の現在において観ることのできる最高のSFイメージに他ならない。さらにそのSFイメージは、原作者である60年代SF作家P・K・ディックのものというよりも、サイバーパンクSF作家ウィリアム・ギブソンの小説すら思わせるよりリアリティの増した汚濁に満ち暗澹とした未来世界なのだ。だが「生きることの惨めさ」という点では紛れもなくディックの遺伝子が受け継がれているといっていい。

163分の上映時間は長いと思われるかもしれない。しかし観終った時、オレは、もっともっと、この世界に耽溺していたいと思った。それほど、強固に、完璧に近く作り上げられた世界だったのだ。監督ドゥニ・ヴィルヌーヴはその名前をSF映画史にきっちりと刻み付けたことは間違いない。

ブレードランナー 2049』予告編


映画『ブレードランナー 2049』予告


映画『ブレードランナー 2049』予告2

ブレードランナー 2049』前日譚

www.youtube.com

www.youtube.com

www.youtube.com

関連商品
Blade Runner 2049 (Original Motion Picture Soundtrack)

Blade Runner 2049 (Original Motion Picture Soundtrack)

 
The Art and Soul of Blade Runner 2049

The Art and Soul of Blade Runner 2049

 
アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))

アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))

 
シド・ミード ムービーアート THE MOVIE ART OF SYD MEAD

シド・ミード ムービーアート THE MOVIE ART OF SYD MEAD

 

 

インドの前近代、近代、現代を内包する物語~映画『Dangal』

■Dangal (監督:ニテーシュ・ティワーリー  2016年インド映画)

f:id:globalhead:20171022134900j:plain

《目次》

 歴代ボリウッド映画興行成績を塗り替えた大ヒット作『Dangal』

インドのスポーツ映画はガチである。傑作が多いのだ。最近IFFJで公開された『M.S.ドーニー ~語られざる物語~』(クリケット)もよかったが、思い出すだけでも『ラガーン』(クリケット)『ミルカ』(長距離マラソン)『Chak De! India』(女子フィールドホッケー)『Brothers』(プロボクシング)と数限りない。そもそもスポーツをやりもしなければ観もしないオレが「インドのスポーツ映画面白い」と言っているのだからこれはもう映画としてのクオリティが高いからとしか言いようがない。

そんなインド・スポーツ映画の新たなる傑作がこの『Dangal』である。2016年暮れにインドで公開され、歴代ボリウッド映画興行成績を塗り替える大ヒットを飛ばし、さらに世界各国でもとんでもなくヒットしているという(でも日本公開がされないのは何故?)。主演が『きっと、うまくいく』『チェイス!』『pk』のアーミル・カーンとなればこれまた期待値は嫌でも高まるというもの。

その内容はというと、レスリング競技を巡る父と子の物語だ。これは実在するレスリング選手マハヴィール・シン・フォガートとその娘たちとのサクセスストーリーを題材にしているのらしい。そう、レスリングをするのは女性なのである。

娘に修羅の道を歩ませる父

舞台となるのは北インドハリヤーナー州。かつてレスリングチャンピオンを目指しながら遂に果たせなかった男マハヴィール(アーミル・カーン)は、自らの夢を継ぐ男児の誕生を渇望していたが、生まれて来る子供はどれも女児ばかりだった。しかしある日、成長した娘たちが男の子をぶちのめしたことを知ったマハヴィールは二人の娘にレスリングをやらせることを思いつく。嫌がる娘たちにスパルタ的ともいえる特訓を課し、そして遂に長女ギーター(ザイラー・ワーシム)は世界大会に出場できるほどの実力を兼ね備えるまでになる。しかしナショナルチームのコーチにとってマハヴィールのこれまでの訓練は時代遅れのものでしかなかった。

女子レスリングというとサルマーン・カーンが主演した『スルターン』があり、こちらは女子レスリングはあくまでサブテーマではあったけれども、それでも題材が被っているように思えて、大ヒットしたとは知りつつこの『Dangal』を観るのに結構二の足を踏んでいた。『スルターン』は個人的にもとても好きな作品だし、いくらアーミル・カーン主演とはいえ、期待が高すぎてがっかりしたくない、という不安があったのだ。世界的大ヒットという話題も、観るのに身構えてしまった理由だった。

しかし観終ってみると、『スルターン』とは別個のアプローチで女子レスリングを描いた作品であり、また外連味たっぷりの、そしていかにもサルマーン兄ィ出演作といった大衆娯楽作『スルターン』と比べると、実に正攻法のスポーツドラマとして完成していたと思う。そしてやはり、評判通り、目くるめくほどに面白い傑作であった。しかしこの作品を一般的に傑作たらめている要素、封建的な父親とその娘との葛藤と和睦、そして当然スポーツドラマとしての高揚感は確かに一般向けするものであると認めつつ、ここではもう少し違う観点でこの『Dangal』のことを考えてみたい。

インドの前近代、近代、現代を内包する物語

まずこの作品に底流するのはインドの前近代~近代~現代の流れのように思えたのだ。「自らの跡取りとして男児出生を希望する父親」というのは現実でもインドで問題になっていることだが、そういった封建的、あるいは「前近代的な存在」としての父マハヴィールがまず登場する。その生まれた娘に望みもしないのにレスリング訓練を強要することもまた前近代的な行為だ。

しかしここであるエピソードが挟まれる。それは長女ギーターと二女バビターの友達で、14歳で結婚させられることになるある少女の話だ。少女の結婚、というのもインドの前近代性だ。しかしこの少女はギーターとバビターに、「単なる女中扱いで結婚させられる自分と比べるなら、あなたたちの父はまだあなたたちを人間扱いしている」と告げるのだ。

確かに、望まぬこととはいえギーターとバビターへのレスリング特訓は、はからずして女性でありながら自らの道を切り開く切っ掛けとなるものと考えることもできるのだ。勿論それはマハヴィールの独善的な強要ではあったが、結果的に女性に道すらも無い世界に道を敷いたのである。ここで「父の敷いた道」を「自らの進む道」と認識したギーターとバビターは、父の過酷な特訓を受け入れるようになるのだ。ここには前近代から一歩進んだ近代性が孕まれているのだ。

さてナショナルリーグチームに編入されたギーターは、ここで科学的で合理的なメソッドに基づくトレーニング法を学び、同時に父のトレーニング法が時代遅れのものであることを知る。科学性と合理性を学び知る事、これは即ち「現代」性である。それにより、ギーターは「父親」という「近代」を克服するのである。多少その存在が弱まっているとはいえ、「絶対的な父親」像が未だ残るインドにおいて、「父親の克服」というのは実に現代的なテーマであるように思う。

合理性と人間の情

しかし、「現代的」なスポーツ科学の適用があるにもかかわらず、ギーターの成績は伸び悩む。そしてここで父親のアドバイスが復活する、というのがこの『Dangal』の流れとなる。つまり現代から前時代に揺れ戻ってしまうのである。揺れ戻ったその「前時代性」とは何か。それは父親との「愛」であり「信頼」である。スポーツ科学やスポ―ツ心理学ではその辺もケアしているような気もするのだが、物語ではここで「スポーツ協会への不信」という形でうまく説明されている。

こういった形で、『Dangal』の物語は「前近代~近代~現代」といったインドの精神史の中を揺れ動いてゆく。これは広大な国土と膨大な国民数、さらに悠久から続く歴史性により同時代に前近代〜現代まで内包しているインドならではのドラマ性だと思う。歴史はインドに現代的であれ、そして科学的で合理的であれ、と鼓舞するだろう。しかし人の心とはそう簡単に合理性のみに馴染むものではない。『Dangal』の物語はその中に差し込む「人間の情」についての物語だ。それは新しくも古くも無くあくまで普遍のものであるかのように。しかしその未来に何があるのかは、これはまた別の話なのだろう。

『Dangal』予告編


Dangal | Official Trailer | Aamir Khan | In Cinemas Dec 23, 2016

参考記事